古文の時間などで、仏教への信仰が強かった平安時代の貴族社会における「死」は、最大の「ケガレ」として扱われていたと教わった記憶がある方もおられると思います。
その一方、仏教が伝来した後も、そして庶民の間にも仏教の信仰が根付いてからも、鎌倉時代(13世紀)の以前では、死者の葬儀といえば風葬が中心だったという事実があります。
つまり誰かが死んだら、遺体は郊外か、決まった場所に放置するのが基本。
放置といえば、捨てたように思うかもしれませんが、それが当時では立派に「葬る」という行為だったのですね。
このため、少し村落を離れて歩いていると、そこら中に腐り残った人骨を見つけてしまう可能性だってありました。
本当に死というものと、日常生活は切り離せない状況だったと考えられるのです。
「自ら死に場所に赴く」逸話に見る3つのポイント
しかしやはり死はケガレという感覚は庶民の間にも当時からあり、12世紀初頭に成立した『拾遺往生伝』中巻第二十六話では、面白い話が出てきます。
左京陶化坊の十人・下道重武(しもつみちのしげたけ)が亡くなるというとき、僧侶を呼んで「うちには貯えもなく、妻子のほかに親族もないので、妻子の負担を軽くしたい」といって、最後の力を振り絞り、当時では庶民の墓所とされていた八条河原のある箇所にまで歩いて行って、そこで死んだということです。
近所の人たちが見送ったそうですが、彼らは彼の遺体をそのまま置いて戻ってきました。
この話には、押さえておくべき理解のポイントが3つほどあります。
まず、この時代の葬儀には、そのお手伝いをしてくれる葬儀社などがなかったということです。
そして、残された家族が看取りから、遺体をしかるべき場所に運んでいくことまで、全てを行わなければならなかったということも見逃せません。
さらに、庶民の葬儀はやはり風葬であった……ということですね。
平安時代後期まで葬儀のカタチはなかった?
しかし、明治天皇の幼少時くらいまでは、天皇家に生まれた皇子・皇女ですら、彼らが7歳の誕生日までに亡くなった場合、簡単なお葬式がある程度。服喪の習慣すらありませんでした。
7歳になるまでは、生まれた家がどこであれ、その子の「尊卑」は関係がないという意識があったということです。
平安時代の承保四(1077)年に、白河天皇の皇子・敦文親王が四歳で亡くなると、彼の遺体は産着でくるまれたものの、それを「東山大谷に捨てた」という、現代人にはショックな記述まで出てくるのでした。
平安時代後期くらいまでは、宮中にくらす身分の高い人たちでも、葬儀を担当したのは家族や直接の臣下たちでした。葬儀社はこの頃はまだありませんから。
天皇や天皇経験者である上皇・院などの場合は、陵(みささぎ)とよばれる特別な葬られ方を土葬でしました。
しかし彼らの妻にあたる女性の場合……たとえそれが中宮・皇后といった身分を得た高貴な女性であったとしても、当時は火葬が中心なので、よくて遺灰が天皇家というより妻の一族の墓所に放置され、もしくはバラまかれ、そのまま土に還った例が多いようです。
たとえば清少納言が『枕草子』で理想的な女性として描いている、一条天皇の中宮(のちに皇后)の藤原定子。定子の遺体がどうなってしまったかも、現在ではハッキリしていないほどなんですよ。
火葬にした遺骨をどの霊場に、どういうカタチで葬るか……という、「納骨信仰」が重視されはじめるのは、平安時代後期、11世紀頃。
それも当人の生前の意思があってのことで、現代のように亡くなったらその日のうちにお通夜があり、その後……というように葬儀の対応はその場限りでノウハウやシステムはなく、確立などされていなかったのです。
家族にかわって葬儀の大部分を執り行う、いわば葬儀社のハシリともいうべき「三昧聖(ざんまいひじり)」という、いわば葬儀のプロ、埋葬職人とでもいうべき人びとが歴史に登場するのは鎌倉時代になってからです。
現代に近いともいえる、お見送りの意識がやっと上流階級の中で芽生えはじめたのは中世以降だったのですね。
これらについては、また後にあらためてお話ししましょう。