花山天皇
花山天皇 「私が死んだらなら、四十九日以内に娘たちも全員、あの世に連れて行くつもりだ」
歴代天皇の中でも「変人枠」に分類されがちな花山天皇。平安時代前期の天皇です。女性関係は当初、華やかでした。
しかし「この人こそ運命」と思っていた最愛の女性を亡くし、気弱になっていたところ、大臣・藤原兼家に「私と一緒に出家してしまいましょう」と持ちかけられます。
そして、自分だけが騙され出家させられるという憂き目を見ます。
藤原兼家は土壇場で「父上の顔を見てからでないと出家できない~」などと帰ってしまい、その後も出家などはしませんでした。
日本史上で稀に見る「出家するする詐欺」に引っかかってしまったのです。
出家とは「生きながらにして死ぬこと」を指し、出家した時点で天皇としては退位です。
出家していなければ上皇の身分となりますが、花山天皇は出家させられているため、法皇となりました。
この世に絶望した花山法皇は、現・和歌山県の熊野で厳しい仏道修行を三年にも渡って敢行、その後、帰京した後は「奇人」と呼ばれるようになります。
僧侶の姿はしていても、筋骨隆々のコワモテのボディガード(※彼らも僧侶)を何人も引き連れ、やりたい放題の生活を送る一方、和歌や絵画といった雅を愛しました。
そんな花山法皇の最後の言葉が、「娘たちも道連れにしてやる」。原文は「われ死ぬるものならば、まずこの女宮達をなん、忌のうちに皆とり持て行くべき(『栄花物語』)」でした。
花山法皇には四人ほど皇女たちがいました。
実際、その言葉どおりにはならなかったようですが、尋常ならざる恐ろしさです。
本当に最後まで憎まれ口を叩きたい人生だったのでしょうか。享年41歳でした。
この言葉の出典は、藤原家を讃えるために書かれた歴史物語『栄花物語』の一節です。
花山法皇は誤解されやすいかもしれませんが、本質的には純情な方でした。藤原家の支配体制に反抗的だった花山法皇は悪く書かれがちだったということは言っておきます……。
後醍醐天皇
後醍醐天皇 「骨は縦令(たとい)南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思う」
北条家による権力の私物化がひどかった鎌倉幕府を、足利尊氏と共に倒した「英雄」後醍醐天皇の前半生は、華々しいものでした。
「朕が新儀は未来の先例たるべし」……つまり、私が行う新政治は、未来の人々によって振り返られるべき理想の例となるであろう、という後醍醐天皇の言葉には自信が満ち溢れています。
しかし政治の中心を、京都の朝廷に取り戻そうとした「建武の新政」は、新興勢力である武士たちの待遇に不備が多いものでした。
後醍醐天皇の権力は足利尊氏をはじめ、武士たちによって支えられていたにもかかわらず、です。
結果的に建武の新政がはじまってから、わずか三年ほどした後の1330年、後醍醐天皇は京都に居場所を失い、都の南に位置する吉野山に潜伏。いわゆる「南朝」を立てました。
京都では新帝が即位、自動的に「北朝」がはじまります。
いわゆる南北朝時代の幕開けでした。
北朝の元号でいえば延元四年、頼りにしていた家臣たちが相次いで戦死する中、後醍醐天皇自身も失意の中で崩御します。
最後の言葉の訳ですが、「私の遺骨は京都に戻れず、吉野山で朽ちたところで、魂はつねに京都に帰る日を待っているぞ」というような感じでしょうか。
軍記物語『太平記』の一節で後醍醐天皇は、左手に法華経、右手に宝剣を持つという、まるで不動明王のような姿で座ったまま亡くなったそうです……。享年52歳でした。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
「生前退位」問題が明らかになった2016年以来、元号問題で頭を悩ませた人も多いでしょう。
しかし南北朝時代はそれ以上に元号問題は複雑でした。
古来、元号は天皇が決定するものでした。つまり天皇の数だけ元号は存在するのです。
南朝の元号は建武のまま、北朝では延元が始まるという二重元号となってしまいました。
天龍寺 大方丈と曹源池
osakaosaka / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)
実際にも天皇の死に様は迫力があるものだったらしく、後醍醐天皇の呪いを躱す(かわす)ために足利尊氏は立派な庭のある寺を作らせることにします。それが後の天竜寺です。
明治天皇
明治天皇
(何かつぶやいたが、公表はされず)
日本の「近代化」が一気におしすすめられた明治時代。
越前藩主の松平春嶽(松平慶永)が用意した複数の案の中で、後に明治天皇となる睦仁親王がクジビキで選びだしたのが、明治という元号でした。
クジビキによる元号制定はきわめて稀な例です。
また、明治時代から「一世一元の制」が開始され、「天皇の在位期間」を「ひとつの元号」にするという制度がスタートしています。
明治天皇自身は、臣下の理想とする「近代化していく日本」に疑問を感じることも多かったようです。
枢密院会議
しかし、国会などなかった時代、議会に相当する枢密院の会議に天皇は出席しつづけ、不動の姿勢で臣下の交わす議論を熱心に聞き続けていました。
しかし、明治天皇が崩御する明治45年7月15日、天皇が会議中に意識を失っている姿が目撃され、議長だった山縣有朋がそれとなく起こすという「事件」がおきました。
傍目には居眠りのように見えましたが、すでに明治天皇は重い糖尿病に冒され、意識を失っていたのです。
山縣有朋
当時、天皇が深刻な体調不良を抱えている事実は、ごく一部の人にしか共有されておらず、山縣有朋ですら何も気づいていなかったのですね。
その4日後の7月19日の夕食時、「目がかすむ」といって天皇は倒れて寝込み、体調は悪化する一方でした。意識は遠のき、7月30日早朝に亡くなります。
天皇が何か最期につぶやき、それを皇后(後の昭憲皇太后)がうなずいて聞いている姿が目撃される以外、60歳での静かな死でした。
明治天皇は自分が先に死んだら、「御内儀(=皇后)はめちゃくちゃになる」と、最愛の妻のことを気にかけていましたが、その心配は不要だったようです。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
昭憲皇太后…身体が弱かったため、明治天皇との間に実子はいなかった。
明治天皇の最期の言葉はきわめて個人的なものだったのでしょう。
それを公表しなかったところに、昭憲皇太后の器の大きさが感じられてなりません。
明治天皇(の時代)以降、数え年の「享年」ではなく、満年齢で没年齢をあらわすことが多いという習慣があるので、本稿もそれにしたがいました。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
天皇の定員は一人だが、上皇・法皇は天皇経験者の数だけ存在可能だった。
平安時代の天皇の在位平均期間は10年ほど。
そして退位も日常的とはいえないまでも、珍しくはないことだった。何人もの上皇・法皇がいるのがこの頃の感覚では、むしろ普通だったといえる。