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コラム 堀江宏樹の葬儀文化史 presented by 雅倶楽部 2024年11月30日掲載

【平安時代の葬儀】陰陽師による「蘇生の儀式(3日間)」を必要としたホントの理由

光源氏の時代、中級貴族の葬儀はどのようなものだったのでしょうか?
死後、陰陽師によって執り行われる3日間の復活の「儀式」など、当時の風習などとあわせてご紹介いたします。

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以前のコラム(『【平安時代の葬儀】朱雀帝の女を寝取った光源氏の末路』)では、故・桐壺院の墓参をするといって、その遺骨が埋葬された「北山」をさまよい歩いた光源氏の姿をご紹介しました。

実の天皇、天皇経験者の方々の葬儀としてはかなり異なる描写であるがゆえに、紫式部自身のお墓参りという行事に込められた思いを知ることができる気がする貴重なシーンといえるでしょう。

これまでの連載の中でも、平安時代の葬儀については断片的にお話してきましたが、今回、改めて紫式部の時代の貴族の葬儀とはどんなものだったのか、様々な文献から得た知見から、改めて解説したいと思います。


「死=ケガレ」…シンプルな葬儀が好まれた理由

平安時代において、故人の葬儀や供養は、現代にくらべてかなりシンプルでした。それは貴族でも同じです。現代の「家族葬」に近い、身内だけの少人数での葬儀がほとんどでした。これは当時、死が最大のケガレであったことが関係しているのでしょう。

しかし、平安時代の貴族のお葬式がどのようなものだったのか、そしてどのような工程だったかについては、文献ごとに内容が大きく異なり、互いに矛盾し合う記述も多いのです。それゆえ、今回のお話は筆者なりに、錯綜する情報をまとめた一種の仮説として受け止めていだければ幸いです。

平安時代には、ご遺体を北枕で安置するという風習がすでにあったとよくいわれます。正確には、お釈迦さまが亡くなった時に取っていた姿勢として知られている「頭北面西」――つまり、ご遺体の頭を北側に、顔を西に向けた姿勢を取らせて、魂の極楽往生を祈願したわけですが、紫式部や藤原道長が生きた平安時代中期では、葬儀一式を取り仕切ってくれる三昧聖(ざんまいひじり)と呼ばれる専門の僧はまだおらず、

・ご遺体の沐浴(逝去時ケア)
・「死に装束」だった白衣への着替え
・納棺

などもすべて故人に近い家族や親族、臣下たちの手で行うものでした。これは天皇家の方々の場合でも同じです。

高い身分の持ち主の身体には、そうではない身分の者が気安く触れることは許されなかったので、葬儀のすべての工程も近しい親族、あるいは臣下が行わねばならないのです。こうした状況は平安時代後期まで続き、貴族たちは葬儀の手順や気をつけるべきポイントを子々孫々に伝えるため、日記に書き残しています。

亡くなった後で、ご遺体を家族の手で「北枕」にする場合もあったでしょうが、『栄花物語』など歴史物語に見られる、藤原道長の場合は、死を覚悟した時点で、彼自身が最後の力を振り絞って「頭北面西」の姿勢を取ったことがわかります。

道長は当時の貴族の中でもとりわけ熱心に極楽往生を希望し、考えようによっては生前から、自分の葬儀を自らの手で開始していたようなところがあって興味深いのです。道長の最期の日々についてはまた後の機会に詳しくお話しましょう。

死亡診断のために行われた3日間の「蘇生の儀式」

さて、紫式部のような中級貴族たちの「お葬式」に話を戻します。息を引き取ってから最低3日間は、僧侶や陰陽師が、故人の蘇生を目指した儀式を行うのが通例でした。当時は心電図や脈拍計などがないため、呼吸や脈拍が停止しても、それが仮死状態なのか、本当に亡くなったのかを判断できないからです。蘇生儀式には、家族も故人の名前を呼んだりして熱心に参加するものでした。

しかし、それでも故人が目を覚まさなかった場合にのみ「死」が確定し、家族たちがご遺体を沐浴させたり、白衣を着せ、納棺する作業に入るのです。またこの時から、室内の屏風や几帳の類はすべて逆さ向けに立てられ、枕元にはロウソクを灯した燈台が置かれます。

また、僧侶たちと近親者は、声を立てずに唇だけを動かして念仏を唱える「無言念仏」を行います。かなりシンプルですが、これが現代のお葬式において僧侶の読経に相当する部分だと思われます。

その後、陰陽師が「葬儀」の日取り、場所を決定します。当時、葬儀といえば、それは火葬を意味していました。陰陽師の判断によって遺体の安置期間は標準的な3日よりも長引くこともありました。貴族の場合、火葬の場所は鳥辺野、鳥辺山など、いわゆる東山のエリアが選ばれることが多かったようですね。この当時、山は霊魂が依り付く場所だと考えられていたのです。

遺体は牛車に乗せられひっそりと…

陰陽師が決めた葬儀の日が暮れると、納棺されたご遺体は牛車に乗せられ、東山など葬儀の地を目指します。

家族たちは牛車のあとを徒歩で付き従うのですが、その後の時代――たとえば明治時代などのように故人の生前のステイタスを誇示するような豪華な隊列が組まれることはなく、4,5人ほどの近親者とごく少数の従者たちだけが人目を避けるように、夜を選んで牛車に付き従うのでした。現在でも神社の御神体を移動させるときに使われる、行障(ぎょうしょう)と呼ばれる幕をかざし、牛車に視線が集まらないようにすることもありました。

葬儀場所に決められた土地に着くと、火葬が始まります。骨になるまでは1日ほどかかったようで、その間は僧と家族が交代で火の番をしますが、シンプルなお葬式の場合は、焼き上がりを待って、その場で儀式終了となることもありえたようです。

平安時代では故人の遺体や遺骨と、故人の魂は完全に「別モノ」だと考えられていたことが、現代の感覚ではかなり簡素といえる葬儀や、その後の遺骨の管理方法にも反映されていると考えられますね。

その後は七日ごとに法事が行われ、たとえば「七七日(なななぬか)」――現代でいう四十九日の法事を重視する習慣も当時から存在していました。遺族は薄鈍色(うすにびいろ)といわれる濃いめの灰色の喪服で過ごしますが、それも1年の間だけ。故人の死から1年目にあたる日は「御果ての日」と呼ばれ、ここで法事を行った後に遺族たちは喪服を脱ぎ捨て、色のついた平服に着替えるのでした。

――以上が紫式部の時代の、平均的な貴族階級のお葬式といえるでしょう。

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