最近は聞かなくなりましたが、アメリカ合衆国初代大統領で「建国の父」ことジョージ・ワシントンの桜の木のエピソードは有名ですね。
六歳のワシントン少年は、斧の切れ味に興味津々なあまり、お父さんの大事にしていた庭の桜の木を切りたおしてしまいます。
しかし怒られるのを覚悟で「自分がやった」と正直に認め、許されたという逸話です。
読者受けを狙った「作られたエピソード」?
ただしこの話、真実かは疑わしいものです。
ウィームズ牧師なる聖職者によって書かれ、1800年に出版、大人気を博した『逸話でたどるワシントンの生涯』なる伝記本の第五刷が初出なのですが、読者受けを狙ってさらに売れるよう、付け加えられたものだろうと現代では考えられています。
それなのに、ワシントンの誕生日である2月22日(最近は2月の第3週を祝日としているらしい)にはチェリーパイを無料もしくは格安で配るという風習がアメリカにはあるそうです。
また1912年、東京市長だった尾崎行雄がワシントン市に親睦の証として3000本もの桜の木を贈り、今でも多くの人々で春になると賑わうそうです。
高度に伝説化され、無条件に尊敬されてしまっている「建国の父」ワシントンには秘められた怖いエピソードがたくさんあるのでした。
【恐怖】ワシントンの裏の顔
アメリカの独立を、イギリスから勝ち取った軍人としての活躍を評価され、1789年、選挙によって大統領の座を勝ち取ったワシントンですが、この時にはすでに本物の歯は1本しか彼の口内には残っていませんでした。
当時、ワシントンは57歳。22歳で最初の永久歯を失った後、25年の間に27本もの歯を次々と失い続けていたことになります。
要するに出世するほどに、歯が抜けていく人生だったのですね。
すべてのワシントンの肖像画で、彼の口元は食いしばるように不自然に閉じられています。
その口の中にはカバの骨の土台に動物の歯にまじり、人間の本当の歯まで植え付けたグロテスクな総入れ歯が入っていました。
日本ではすでに木製の上質な総入れ歯があった時代に、アメリカではそんな恐ろしいシロモノを歯のない患者に使わせていたのですね。
ワシントンは大農園主で、400人にもおよぶ黒人奴隷を所持し、彼らから健康な歯を引き抜いて自分の入れ歯に使っていたのです。
ワシントンの裏の顔といえば、インディアン皆殺し運動で知られますが、奴隷の扱いにも戦慄させられるものがあります。
そしてそこまでやったにもかかわらず、ワシントンは離乳食のようなすりつぶした食事しか摂ることができず、絶対に口を開けて笑うことも避けたといいます。
ワシントンの辞任挨拶の様子が描かれた$5,000札
1797年、二期(8年)をつとめた大統領職を辞めたワシントンは、現在のワシントンD.C.から南へ約20キロあたりにある、マウントバーノンという田舎町にある自分の農場に戻ります。
65歳でのリタイアですが、そろそろ政治家としての活動を、口の中の状態が許してくれなくなったという意味での「限界」だったのではと思われます。
歯がなくなればその部分の歯肉はやせていきますし、せっかく作った入れ歯も合わなくなっていきます。
政治家として満足なスピーチもできませんし、会食もこなせません。
ちなみに二期目の就任演説はわずか135語しかありませんでしたが、これも口内環境の問題でしょうか。
血を抜く治療で瀕死状態に
リタイアから約二年後……1799年12月14日の朝、67歳になっていたワシントンを突然の高熱が襲います。
焦った秘書のリアは一番近い医者クレイグを呼びにやりますが、彼は13キロも先に住んでおり、砂利道を馬を飛ばして行くのにはたいそうな時間がかかりました。
ワシントンの容態は刻々、悪化していきます。
秘書が農園監督のローリンズに意見を求めると、農園監督はワシントンの腕をナイフで切り裂くことを勧めました。
……これは当時、もっともポピュラーだった瀉血という「治療法」で、悪い血を抜くことで病気が治ると信じられていたのです。
一種のショック療法でしょうか(20世紀初頭までこの「治療法」は医者に続けられ、当然のように多くの人の命を奪っています)。
数時間後、クレイグ医師がようやくやってくるのですが、彼の処方は当時最新でも、現代人には意味不明としかいいようのないものでした。
強い毒をもつ昆虫・ツチハンミョウの死体を乾かし、粉にしたものをワシントンの首の周りに塗りたくるのです。
こうすると皮膚が水ぶくれをおこし、血が溢れます。
当然のように激痛が走りますが、ワシントンはすでにまともに話せない状態でした。
他に二人の医者が到着して、彼らはツチハンミョウの毒を首にもう一度ぬり、またワシントンの腕からかなりの量の血を抜き去るという処方を繰り返すだけでした。
ほかには強烈な嘔吐剤と下剤が処方され、瀉血も何度も繰り返され、成人男性の血液の約半分くらい、合計2.7リットルの血が彼の身体から抜かれてしまいました。
全血液量の半分を失えば心停止すると現代医学では教えるのですが、それでも、ワシントンは死ねませんでした。
ワシントンが惨殺し、その尻の皮でブーツやレギンスを作らせたというインディアンたち(イロコイ族)、あるいは麻酔もないのに健康な歯を引き抜いた黒人奴隷たちの「呪い」とでもいえばよいでしょうか。
恐ろしい苦痛の中、最後の力を振り絞ったワシントンは「もう構わないでくれ。静かに死なせてほしい。もうすぐ私は死ぬから」とつぶやきましたが、医者たちはあきらめてくれません。
例のツチハンミョウの粉とか、小麦のフスマ粉を足に塗りたくって水分を抜こうと試みている中、生きながらにしてミイラのようになったワシントンは事切れました。
フリーメイソンの葬儀式を採用
発熱してから約二日後、12月16日のことでした。
口の中のトラブルに悩まされつづけたワシントンらしく、死因は喉頭蓋炎(こうとうがいえん)で、抗生物質を飲むだけで治ったであろうといわれています。
生きたまま、土に埋められることを恐れていたワシントンの遺言は「死後2日間は埋葬しないでほしい」だったので、葬儀は死の二日後の18日になりました。
ワシントンの遺体はマホガニー製の棺に入れられ、11時ごろから彼の住んでいたマウントバーノンの街の広場に安置されていたので、人々は彼に最後のお別れをするためにおとずれました。
広場からワシントン家の霊廟まで葬列が組まれ、夕方からワシントンが熱心な会員だったフリーメイソンの宗教儀式が執り行われました。
フリーメイソンというと現代では「オカルト秘密結社」のように思われがちですが、すくなくとも当時は「友愛」で結ばれた会員たちによる交流組織で、ワシントンはその熱心な会員でした。
1793年、ワシントンD.C.に連邦議会の議事堂が作られることになり、その定礎式にもフリーメイソンの礼服で出席しています。
多くのフリーメイソン会員がワシントンの霊廟での儀式に訪れ、アカシアの小枝を彼のお棺の上に置いていったそうです。
フリーメイソンではアカシアの小枝が「不死、再生、不滅、永遠」などを象徴するそうです。
現代でも多くの観光客がワシントンの霊廟を訪れるといいます。ワシントンの黒い逸話は忘却の彼方に去ったようですね。