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コラム 逃げ若 2024年11月2日掲載

【逃げ若】護良親王の憂鬱 - 命運を決した中先代の乱 -

後醍醐天皇の第3皇子として生まれ僧侶としての将来を嘱望された護良親王。足利尊氏の「野心」を削ごうと腐心した結果、暗殺のトリガーが引かれてしまうことに。今回は、憂うべき護良親王の最期について触れてみたいと思います。

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『逃げ上手の若君』のアニメでは第6話で初登場した護良親王。親王のお名前は「もりなが」と読む機会も多いのですが、歴史的文脈では「もりよし」と呼ぶことが一般的です。

作品内では「人間の領域を超えつつある」と語られ、魔物じみた足利尊氏の危険性をいち早く見抜いていた親王ですが、まったく歯が立たず呆然とする姿が印象的でした。

今回はこの護良親王の数奇でドラマチックな人生と、亡くなってもなお残し続けている謎を取り上げようと思います。

『(足利)尊氏に野心あり』…先見性がアダになった護良親王

史実の護良親王は後醍醐天皇の第3皇子(もしくは第1王子という説も)として生まれ、幼少期に天台宗三門跡の一つである梶井門跡に、お入りになりました。
この頃のお名前は正確には大塔宮(おおとうのみや/だいとうのみや)こと「尊雲(そんうん)法親王」ですが、今回は読者の理解しやすさを考え、護良親王で統一させていただきます。

親王が還俗――僧籍を離脱し(僧侶であることをやめて)、皇族に復帰したのは鎌倉幕府滅亡の前年・元弘2年(1332年)のことでした。
親王は僧侶としての将来を嘱望され、20歳のときに天台宗の座主(ざす、代表責任者)に就任するほどでしたが、僧籍離脱以前からすでに、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒のための戦のひとつ、「元弘の乱」で僧兵たちを率いて大活躍を見せました。また親王の祈祷には高い効果が見られ、病人を治すこともできたとか……。

しかし、後醍醐天皇はそんな親王よりも足利尊氏という配下の武将を非常に信頼し、寵愛していたのですが、後には親王の予見どおり、尊氏には裏切られてしまいました。『逃げ若』の諏訪頼重のように、護良親王にも未来を見る目があったのでしょうか。当初から尊氏に「野心あり」と見抜いていた親王は、史実でも尊氏の勢力を削ごうと反発を繰り返していたのです。

一時は征夷大将軍にも任じられた護良親王ですが、かえって尊氏との対立は深まり、建武元年(1334年)の終わり頃にもなると、激化する一方の両者の対立に手を焼いた父帝・後醍醐天皇は親王を見限ってしまいました。そして兵に捕縛された護良親王は、鎌倉に護送され、土牢に幽閉されてしまいました。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

建武元年(1334年)の終わり頃…

鎌倉幕府の滅亡から早くも1年ほど後の話

北条時行の挙兵(中先代の乱)が護良親王をピンチに?!

鎌倉幕府滅亡後の鎌倉には「鎌倉将軍府」と呼ばれる、朝廷による関東支配の拠点が作られ、足利尊氏の弟・直義がその執権に、そして護良親王の異母兄弟にあたる後醍醐天皇の皇子・成良親王が将軍となっていたのです。

しかし、建武2年(1335年)7月、信濃国(現在の長野県)の諏訪大社の大祝(おおほふり:諏訪大社の神官たちの頂点)ともいわれ、同時に武将でもあった諏訪頼重が、鎌倉幕府最後の執権の息子にあたる北条時行とともに挙兵する事件がおきました。一説に時行は当時まだ10歳の少年でしたが、見事に大軍を率いて、鎌倉の奪還に成功しています(「中先代の乱」)。

これは後醍醐天皇・足利尊氏サイドには大きな打撃でした。かつての鎌倉幕府の執権の血統にあたる北条時行が鎌倉を奪還し、後醍醐天皇にひどい目にあわされた護良親王を再び将軍の座に据えて鎌倉幕府が名実ともに復活しかねないからです。

それゆえにこの時、足利直義は、一計を案じました。手下の武将・淵辺義博に密命を下し、護良親王を暗殺させ、その後、成良親王らと共に鎌倉から京都まで逃げ延びたのです。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

足利直義

一説に、源頼朝だとして考えられている。
京都・神護寺所蔵の肖像画は、最近、足利直義ではないかといわれるようになっています。

9ヶ月も狭い土牢に入れられていたので、足腰が立たなくなっていた護良親王でしたが、自分の首を狙った刀を口で噛んで止め、なんとか身を守ろうとしたという逸話があります。

あまりの力で噛み締めたため、刃が折れてしまうほどでした。
しかし抵抗むなしく、首を切り落とされてしまうのですが、死後もなお親王の恨めしげな表情は変わることなく、このような面構えの首を足利直義さまにお見せできないという淵辺義博の判断で、親王の首は竹藪の中に投げ捨てられてしまったのだとか……。

諸説ある護良親王の最期

しかし、護良親王にはこれ以外にもさまざまな最期が語られており、淵辺義博の手で実は助けられ、石巻(現在の宮城県)まで逃げ延びていったという説もあります。

ほかには護良親王の側室で、彼の子をお腹に宿していた雛鶴姫という女性が、竹藪に捨てられた親王の首を拾って、防腐剤である朱(しゅ)の中に漬け、京都を目指して逃避行を試みたという異説もあります。
しかし、姫は甲斐国(現在の山梨県)あたりで産気づいてしまい、難産の末に母子ともに亡くなったとする悲しい逸話もあるのでした。

現在の山梨県都留市・朝日馬場の石船神社には、この雛鶴姫が命に替えても守ろうとした親王の首が「御神体」として祀られています。しかも親王の首は「首級(みしるし)」と呼ばれ、現在も年に一度、神事の中で公開されているのです。

年に一度、神社を運営する「宮世話」が交代し、その時に「御首」が無事かを確認するのですが、ミイラ化したように見える親王のお顔はあまりにリアルで、新聞記事の写真だけでも怯んでしまうほどなのです。

かつては本当に護良親王の首――仮にそうでなくても、人間の頭部のミイラ化したものだといわれてきたのですが、20世紀に入ってから科学調査が行われ、人間の頭蓋骨に漆などの層を分厚く塗り込んで「復顔」が行われたものだと判明しました。

現在では空洞化し、白い綿が詰められている左目にもかつては水晶がはめ込まれていたと考えられます。なぜ白骨でなく、「復顔」――それも打ち首された直後の苦悶の表情を思わせる復顔が試みられたのかは謎というしかありません。しかし、土地の人は親王の無念を毎年思い出し、語り継ぐことでしか、彼の慰霊は行えないと考えたのではないでしょうか。

[ネタバレ注意]鎌倉奪還後、北条時行たちを待ち受けた悲しい結末

さて、北条時行と諏訪頼重による念願だった鎌倉奪還も悲しい結末を迎えました。時行が鎌倉を勢力下に置けた期間はわずか20日ほどで、すぐさま体勢を立て直した足利尊氏がさしむけた大軍勢がやってきて、時行たちを鎌倉から追い出してしまったのです。

北条時行は本当に『逃げ若』よろしく(?)、鎌倉からの脱出に成功しましたが、諏訪頼重たち43名は鎌倉の寺・勝長寿院に立てこもり、顔の皮を剥いで、誰が誰かをわからなくしてから自害するという壮絶な最期を遂げました。

この時、頼重はわが子・時継を道連れにしています。
諏訪時継は、もしかしたら北条時行と同年代の少年だったのではないかと思う読者もいるでしょうが、時継はたしかに生年不詳ながら、亡くなった建武2年(1355年)8月19日の時点で3人の男子がいる年齢になっていたので、時行の身代わりとして死んだというわけではなさそうですね。

ちなみに時行はその後3度、鎌倉を奪還することに成功しましたが、その成功はいずれも短期間で終わっています。

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