都営地下鉄大江戸線・赤羽橋駅から、増上寺にむかって歩いてゆくと、徳川秀忠の霊廟「台徳院殿霊廟(たいとくいんでんれいびょう)」の門のひとつを見ることができます。
台徳院霊廟(wikimedia commonsより)
User:Piotrus [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html) または CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], ウィキメディア・コモンズより
遠目にもキラキラと輝いて見える、豪華な門です。
第二次世界大戦時の東京大空襲の被害もまぬがれ、さらに近年に修復された貴重な遺構です。
この門は、戦前まで増上寺の敷地内にあった「台徳院殿霊廟」の一部でした。台徳院とは徳川秀忠の戒名です。
霊廟本体はおしくも消失してしまったのですが、かつては日光東照宮なみに素晴らしく豪華な建築物だったことが、古写真などから推察されています。
しかし、そんな徳川秀忠の死に様は、その豪華な霊廟とは対象的に悲惨なものでした。
『徳川実紀』には載せられなかった本当の病とは?
死因は、当時の記録(いわゆる『徳川実紀』)には寄生虫病だったように記録されています。
しかし実際は、「狭心症であったのではないか(『カルテ拝見 武将の死因』)」という見立てが医師の分析から出されているんですね。
それまで比較的健康だった秀忠が、とつぜん「胸痛」をわずらって倒れ、世間を驚かしたという記述があるのが寛永八(1631)年7月の項目です。
「胸痛」という言葉がはっきり出てくる7月30日の項だけでなく、それから数えて約2週間ほど前の7月17日にも不調を訴え、秀忠は倒れています。
江戸城内にも秀忠の父・家康をまつった東照宮があったのですが(通称・紅葉山)、そこに参拝中、秀忠が「ことにくるしげにまします(=ことさらに苦しそうになさっている)」様子になったそうです。
苦しみの理由は書かれていませんが、これもおそらくは胸痛だったのでしょう。
しかし、当時、胸の痛みを訴えたところで、医者は誰も「秀忠は心臓を病んでいる」とは「なぜか」考えなかったようです。
連日のようにお灸やら、あるいは医師の誰かが勧める「丸薬」を飲んだという記述があるだけなのでした。
しかも、その丸薬が具体的に何に効果がある薬かという記述は『徳川実紀』には出てきません。
七転八倒の胸痛などを訴えられても、当時の医学では「お手上げ」だったのかもしれませんね。
狭心症の痛みは、胸部にとどまらず、体のあちこちにあらわれることがあり、いつのまにか医師の見立ては心臓病ではなく、「腹部に寄生虫が巣食っていることによる激痛」というふうに切り替わってしまったようでした。
また結局、秀忠には最期まで心臓病の治療はなされないまま、基本的に虫下しの薬ばかりが与えられ、翌年1月24日に衰弱して亡くなってしまいました。
なぜ「誤診」はおきたのか?
秀忠は医師団の「誤診」によって亡くなったのでしょうか?
恐ろしいことですが・・・・・・秀忠は、彼の病気をまともに治療できずに死なせてしまったという風評が立つことを恐れた医師たちに意図的に見殺しにされてしまった気がします。
すくなくとも、現代のような水準では当時、狭心症の治療は行えません。
当時は精密な検査も行えません。
しかし医師としては、それを逆手に取ることはできるわけです。
心臓病(狭心症)だと見抜いていても「手も足も出ませんでした」というのは医師として、あまりに格好が悪い。
身体のあちこちに激痛があらわれる症状を秀忠は訴えていたため、その病気を名医としてのメンツを守るため、「寄生虫病」ということにしてしまったのではないでしょうか。
当時、すでに「心痛」「真心痛(しんしんつう)」というような呼び名が、狭心症をはじめとする心臓病には与えられており、医師たちに病気の知識はあったようです。
しかし、何度もいうように当時の医学では手術も行えませんし、根治のさせようがありません。
その頃、将軍の位はすでに秀忠の嫡男・家光にゆずりわたされて約9年が過ぎていましたが、秀忠は「大御所」と呼ばれ、息子を監督する立場にいました。
そんな日本の最重要人物を、自分(たち)は見殺しにした、治療すらまともに行えなかったという真実が知られてしまうのは、医師(団)としての風評にかかわります。
一方、あくまで寄生虫病の患者として秀忠を扱い、その薬を与え、それでも秀忠が死んでしまうのであれば、それは秀忠自身の運がなかったから・・・・・・と、「申し開き」が多少なりともできるわけです。
実際には胸が痛くて倒れた秀忠に、虫下しと鎮痛薬だけ与えてお茶を濁す・・・・・・そして記録にも一切、胸痛のことは書かせなくなった「不自然さ」はそうとでもいわなければ説明できませんから。
細川忠興/永青文庫所蔵(wikimedia commonsより)
また、本当に秀忠の身体に寄生虫が巣食っていたことは、秀忠が親しくしていた細川忠興の手紙(寛永八年)の内容からわかります。
秀忠の父・家康も愛用していた虫下しの薬を飲んでいると、「長さ四寸ばかり」の回虫といわれる寄生虫が、秀忠の体内から出てきたという記録があるわけです(細川忠興による寛永八年10月6日の手紙)。
さらにこの頃、虫下しを飲まされたこととは無関係でしょうが、秀忠は少し体調を回復していました。
医師団としてはますます寄生虫病だという見立てにしがみついたのでしょうね。
秀忠がおのれの本当の病を知っていたのか、知らないままだったのかはわかりませんが、寛永九(1632)年1月24日の「亥の刻」(午後9時から11時の間)、54歳で亡くなってしまいました。
7ヶ月ほどの闘病生活の後でした。最期は食事はおろか、薬すら飲めないほど衰弱していたようです。
将軍家の作法に則った秀忠の葬儀
さて、秀忠の葬儀はどんなものだったのでしょうか。
前回までのコラムで、江戸時代の徳川家の将軍たちは宝塔の下に土葬されたとお話ししましたが、それは文字数の都合で、かなり省略した説明です。
七代・家継あたりまでは、将軍がなくなるとその一人一人に、まるで日光東照宮のような豪華で巨大な霊廟が作られておりました。
「台徳院殿霊廟」は「権現造(ごんげんづくり)」と呼ばれる、特殊な建築様式で作られていました。
入り口から奥に奥に続くように、拝殿と本殿が、石の間(いしのま)と呼ばれる、少し低く作られた建物でつなげられているのが、「権現造り」の特徴です。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
余談ですが、八代・吉宗あたりで、徳川家の財政難がハッキリとしはじめ、経費削減がやかましくいわれたので霊廟建築は作られなくなっていきました。
[参考]宝塔
巨大な本殿の中枢にしつらえられた墓所に宝塔がそびえ、その宝塔の下に穴が掘られていたのです。
その穴の底に、石で出来たお棺ケースのような「石槨」に包まれた、将軍の木製のお棺が安置されているという、たいへん大がかりな埋葬法がなされていたのです。
埋葬時には石槨に入ったお棺を輿にのせ、大人数で運びますが、穴には落とすようにして入れました。
お棺の中では、将軍たちは高貴な男性の正装にあたる束帯に身をつつみ、あぐらに似た「楽座」という、正式な座り方をしていたようです。
ちなみに徳川家の女性が埋葬される場合は、正座の例が多かったようですね。
現在のように遺体を横に寝かせる「寝棺」が一般的になったのは、1877(明治10)年ごろから。
それ以前は、「座棺」が中心だったとされます。
遺体の傍には大量の衣服や、刀など埋葬されている人物の高いステイタスを証明する物品が置かれていることが多々ありました。
なお埋葬品の選定は、身分の高さより故人の生前の希望によるところが大きかったのか、たとえば十四代・家茂の御台所だった和宮(孝明天皇の異母妹)の場合、ほとんど何もめぼしいものはなかったようです。
ところが……第二次世界大戦中の東京大空襲で、秀忠の墓所は霊廟や宝塔と共に燃え落ちてしまいました。
その後、墓所の学術調査が行われたのですが、空襲の被害を受けるまえに秀忠のお棺は、宝塔や被せられた土の重さに耐えかね、ぺしゃんこになっておりました。
それでも秀忠のミイラ化した遺体の一部が確認され、彼が非常に筋肉質な男性だったことが判明しています。
その後、秀忠の遺体や埋葬物はあらためて火葬され、その遺灰は増上寺の北側にあらたに建てられた宝塔の下に、彼の愛妻・江とともに眠ることになりました。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
ちなみに現在の日本人の死亡原因の第二位が心臓疾患です。心筋症はそのうちの多くをしめています。
しかし奇妙な事実があります。いわゆる「近代医学」が海外から輸入される明治時代以前には、心筋梗塞が理由で亡くなった人の記録はほとんど残されていないのです。
「現代にくらべものにならないくらい、当時の食生活が質素だったから」との説もありますが、これは希望的観測にすぎるでしょう。
現代日本では所得の低い=食生活も贅沢とはいえないであろう地域でも多くの心臓病患者が発生しているエリアがありますからね。
明治時代以前、死因の記録があるのは権力者とその家族が中心です。彼らに仕える医師としては、自分たちのメンツ、そして「名医」としての地位を守るため、治せない病は存在しない病として、その患者を見殺しにしてきたのでしょう。