フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトが亡くなったのは1821年5月5日のこと。51歳の死でした。
当時、ナポレオンはフランス皇帝の座を追われ、イギリス領のセントヘレナ島に流刑されていました。それが1815年のこと。
体調不良だったことも加味しても、セントヘレナ島での幽閉時代にナポレオンは一気に老け込みました。
髪は薄くなり、腹は出て、顔はむくみっぱなし……人々は「ナポレオンの生命は戦争だったのだ」などとささやきました。
胃腸が極めて悪いため、医師のいうこともきかずに自家製レモネードを時々飲むだけという食生活だったと側近のラスカーズ伯爵が証言しています(『セントヘレナ覚書』)。
それでも痩せないのですから、なんといったらよいか……。
医師たちが薬を飲むようにいってもナポレオンは「何事も起こるときには起こるものだ」と達観した姿勢を見せ、4月14日には遠からぬ死を見越して、遺書の選定を行ったという記録があります。
粛々として「死」を受け入れていたようですね。
治療という名の苦痛
しかし本物の死は、英雄にも耐え難いものであること判明しました。
まず、ナポレオンには異常なしゃっくりの症状があらわれました。
何日間も止まらないしゃっくりに困り果てた本人は医師の薬を飲むのですが、嘔吐や数時間ごとの下痢が起きるという凄惨な症状が加わっただけでした。
ナポレオンがグッタリすると、医師たちは彼のフトモモや腹に、毒虫(ツチハンミョウ)の死骸を乾燥させて潰した粉に、蜜蝋、松脂、羊の脂肪などを混ぜた軟膏を塗りつけます。
もちろんこうした「医療処置」は、ナポレオンを苦しめるだけでした。
運命の5月5日、ナポレオンの意識は混濁し、「フランス、軍、軍の先頭、ジョゼフィーヌ(※離婚はしたが、ナポレオン最愛の元妻の名)」などと意味のわからないことをつぶやきました。
セントヘレナ島にナポレオンに付き従ってきた人々だけでも12名がナポレオンについての回想録を執筆、出版しています。
奇怪なことに、ナポレオンの口走った言葉についての記録が、それぞれに違っているのですが、これは作者が何を重視して選んだかだと筆者には思われます。
ナポレオンはとにかくベラベラと意味のわからないことを喋っていたようです。
かと思うと、ナポレオンはとつぜんむくりと起き上がり、モントランという側近男性を突き飛ばしました。
Napoleon_sur_son_lit_de_mort_Horace_Vernet_1826
その後、力尽きたようにベッドに倒れ伏し、眠るように亡くなったそうです……。
その時刻には暴風雨が吹き荒れたとされており、さぞや恐ろしい光景に思われたことでしょう。
毒殺?遺体解剖をしたところ…
さて、ナポレオンには死の直後から、毒殺の可能性が危惧されていました。
また、本人が自分の心臓を、二番目の妻でハプスブルク家から迎えたマリー・ルイーズに贈るようにと遺言していたこともあって、複数の医師による遺体解剖が行われました。
心臓は取り出され、メチルアルコールで満たされた容器(適当なものがみつからなかったので、セント・ヘレナでナポレオンが使っていた海綿の容器!)に入れられ、はんだ付けされました。
しかしフランスから母国オーストリアにもどっていたマリー・ルイーズは別れた夫の心臓など受け取ろうとしませんでした。
さて、医師たちは彼の死因が胃ガンだったことをつきとめ、解剖は終わりました。胃も取り出されましたが、こちらも適当な器が見つからなかったので、香辛料の入っていた円筒に放り込まれました。
今度は従者らの手で、ナポレオンの残り少ない髪の毛が「思い出の品」となるべく、すべて刈り取られていきました。
その後、防腐処置されたナポレオンの遺体ですが、フランスに帰ることをこの時は許されませんでした。
遺言では祖国フランスのセーヌ川のほとりに埋めてほしいと希望していたのですが、それが叶わない場合には……と本人が指定していた近隣の花園にある柳の木の下に埋められています。
セントヘレナ島のナポレオンは島民から人気があり、葬儀には関係者たちだけでなく、三千人以上もの人たちが集まりました。
ちなみに、この時、お棺の中のナポレオンのペニスは切り取られてしまっていた……のかもしれません。
ナポレオンのデスマスクを製作した(後にその複製を販売し、稼いだ)アントンマルキをふくむ、複数の検死担当医が「ナポレオンのペニスは3センチで、睾丸もきわめて小さい」などと証言しているのですが、これと、20世紀半ばにロンドンでオークションにかけられたナポレオンのペニスと称する干物が同じものだという確証はありません。
巷間のイメージに寄せて作られたデスマスク
ちなみにアントンマルキらの検死結果では晩年のナポレオンの肉体には女性化ともいうべき現象がおきており、ふくよかな丸みを帯びているのは下半身だけでなく、胸などもまるまるとして、女性の乳房のようになっていたといいます。
それなのに、アントマルキが作製したナポレオンのデスマスクはやせ衰えており、鼻は高く尖り、頬あたりには不自然な切り込み線のようなモノまで入っている始末です。
当時の人々は「ナポレオンの顔は死んだら、痩せて見ばえがよくなった」などとノンキに言っていたようですね。
しかし「おばさんおじさん」ではなくちゃんと「死したる英雄」に見えるよう、アントンマルキの手によって顔の皮膚の内側にあった脂肪などが削ぎ取られてしまった結果かもしれません。
予約販売した中には、当時のフランス国王、ルイ・フィリップの名前もありました。
Louis-Philippe Ier, roi des Français et la Charte de 1830 / Franz Xaver Winterhalter (1805–1873
ルイ16世の処刑に賛成した、ルイの弟の子孫にあたる人物ですが、「ナポレオン大好き」をとおりこし、マニアでした。
このルイ・フィリップは、当然、デスマスクを購入していましたし、ナポレオンをフランスに帰すため、7年間にもわたってイギリスとの交渉を粘り強く続けました。
努力がみのり、1840年になってナポレオンの遺体はフランスへの帰国を果たすことになります。
ナポレオンの死から15年以上経過した1840年12月15日、パリで彼の国葬があらためて行われ、60万人もの人々が集まりました。
現在、ナポレオンの遺体は彼ゆかりのアンヴァリッドの地下霊廟に安置されています。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
アンヴァリッド…退役軍人のための病院だった建物で、建物の一部が現在はフランス軍事博物館になっている
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
ナポレオンは致死量のヒ素を盛られていたか(つまり毒殺)、もしくは彼の遺体に施された防腐薬がヒ素だったかどうかは、現代でもよくわかっていませんが……。