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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2018年12月7日掲載

『源氏物語』の価値は「あはれ」にアリ!家業を傾かせてまで古典研究に没頭した「本居宣長」の最期

菅原道真、豊臣秀吉、徳川家康に次いで祀られる対象……つまりは「神様」になった本居宣長。
家業を傾かせ、医者に転向してからも続けた日本の古典研究では、『源氏物語』における「もののあはれ」を説いたのは有名な話。本稿では、源氏物語を起点に本居宣長の「あはれ」エピソードを交えつつ、その最期について触れていきたいと思います。

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「源氏物語」の本質をはじめて主張した古典文学研究者

Ujigis [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], ウィキメディア・コモンズより

『源氏物語』といえば「もののあはれ」。

脊髄反射神経的に思い出されてしまう、この流れを作り出したのが江戸時代の大学者・本居宣長(もとおりのりなが)という大学者でした。

いわば『源氏』の恩人といったところでしょうか。

「もののあはれ」とは「物事の情感に感じ入ること」。

本居宣長は『源氏』こそ「もののあはれ」の宝庫であり、それが『源氏』の本当の価値なのだと説いたのです。

光源氏が絶世の美男子・イケメンとして描かれたという設定だけが現代日本では独り歩きし、モテにモテた光源氏のハーレム小説のように『源氏』は考えられています。

が、実際のところ、光源氏が本当に愛した女性・藤壺は彼の義母にあたり、彼女とは添い遂げられない運命にありました。

それでも義母への執着心から、彼女によく似た、それも藤壺と血縁まである少女・若紫(のちの紫の上)を発見した光源氏は自分で彼女を「理想の女性」とするべく養育、妻にします。

しかし、あいつぐ浮気で彼女を苦しめ、最後は先立たれてしまうのです。

孤独と失意の中で光源氏は死んでいきました。

思わず、ため息をついてしまうような『源氏』ですが、まさにそのため息こそが、「あはれ」なんですね。

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Tosa Mitsuoki (1617 - 1691) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

人間生活の真実を、その明るい部分だけでなく、「ため息」を付きたくなってしまうような影の部分にいたるまであますことなく描いた紫式部の筆力こそが、『源氏』の最大の価値なのだ、これこそが日本を代表する文学の本質なのだと主張した、最初の人でした。

さて、「もののあはれ」を知る本居宣長、どんな人生を過ごした人なのでしょうか。

本の読みすぎで家業をつぶしかけたその後に…

彼は現在の三重県、伊勢国松坂の木綿問屋の経営者・小津定利の次男坊として生まれました。享保15(1730)年5月7日のことです。

本当は文学研究をやりたいのに親から商売を学ばされ、兄が若死にした後は店を継がせられた本居ですが、商売にはその才が発揮できず、店も潰れそうになってしまいました。

まさに「あはれ」……。

その後、本居は23歳で医者に転向するとして、京都に向かったのでした。

1755年には26歳で医師の免許も獲得しました。それからは医師として活動する一方で、日本の古典研究にも携わります。

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出典:古事記伝/本居宣長記念館 / Yanajin33 [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], ウィキメディア・コモンズより

何事も凝り性だからこそ、文学研究も進み、先述のとおり『源氏』や『古事記』といった古典の本質を次々と解読していけたのです。

凝り性といえば、本居宣長の遺言で理想の葬式や墓、そしてそのお参りの仕方などについての言及の細かさには驚かされるものがありました。

彼が亡くなったのは享和元(1801)年9月29日。

葬儀は10月2日に執り行われました。「自分(本居)が死んでから親族縁者は念仏など唱えなくてよいのだが、お坊さんが来たらやってもらってほしい」とか「沐浴を終えた遺体に着せる死に装束は、さらし木綿の綿入れで……」などと続いている膨大な遺言どおり、丁寧に彼の希望が叶えられていったそうです。

本居が遺体を土葬する墓所を求めていたのは、山室山の中腹に位置する浄土宗・妙楽寺でした。

山の静かな墓は江戸時代の知識層に高い人気があったのです。

しかし町中からは距離があるため、本居家が代々菩提寺だった町中の樹敬寺にもあった先祖代々の墓に毎月の命日は参ればよい、などと家族の負担をへらそうと遺言しているのでした。

ちなみに遺体が土葬されるべき妙楽寺の墓について、彼の希望は非常に細かくありました。

「墓地七尺四方計。真ン中少シ後ロへ寄せて塚」を築いてスペースを作り、そこに「山桜之随分花之宣(よ)き木」を植えてくれ、枯れたら植え直してくれ……などと続いています。

本居は桜が大好きでしたからね(ちなみに現在にいたるまで、この桜の木にまつわる遺言は守られつづいているそうです)。

寺との交渉を担当したのが、弟子で豪商の三井高蔭で、力のある門弟たちがそれこそ「あはれ」と師匠の最後のワガママを聞いてくれたのでしょう。

師匠の遺体を山室山の妙楽寺の墓所までの葬列には親族20人、門弟20人、その他250人が続いたといいます。

菅原道真や、豊臣秀吉、徳川家康に次いで●になった?!

本居宣長ノ宮(拝殿) / Yanajin33 [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], from Wikimedia Commons

なお本居は仏式の葬儀を行ったのですが、明治になってから、彼を神様にして祭ろうという運動が巻き起こります。

こうして明治7(1874)年、山室山神社(当時)という名前で本居宣長を神としてお祭りする神社が生まれたのです。

日本史の中には人間として生まれ、神様になった人物が何人かいました。

怨霊として恐れられ、その怒りを慰めるべく神様の称号を与えられた菅原道真や、豊臣秀吉、徳川家康といった日本という国家に勲功のあった人々などですね。

しかし、本居はおぞましい怨霊でも日本を代表する英雄でもありませんし、一人の学者にすぎません。

そんな本居宣長が神になれたのは、明治というナショナリズムの時代に、彼が「やまとごころ」≒「大和魂」というキーワードを追求していたから、なのかもしれません。

いずれにせよ、学者が神になるのは非常にレアなケースです。

しかし、神になった本居には信仰があつまりました。

山室山神社には氏子がいなかったのですが、外部からの参拝客だけでも手狭になったということで、明治22年以降、移転を繰り返し、昭和6(1931)年に本居神社、平成7(1995)年に本居宣長ノ宮に改称されていったそうです。

ある意味、菅原神社よりも受験生がお参りすべき神社なのかもしれません。なんせ本居は文学者で医者でもありましたからね。

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