日本にキリスト教をつたえた宣教師・フランシスコ・ザビエル。
もともと北スペインのナバラ地方の名家出身のザビエルはフランスのパリ大学に留学し、哲学を学んでいました。
パリで出会った人物の中に、元・軍人で、宣教組織イエズス会の創始者イグナチオ・デ・ロヨラがいました。
当時の言葉でいえば「宣教師=神の兵隊」となることの意義を説くロヨラの「勧誘」により、ザビエルはカトリックの布教組織・イエズス会のメンバーとなるべく、パリ大学を中退してしまいます。
ローマ教皇とポルトガル国王による認可を得たザビエルがポルトガルを出国、日本の薩摩(現在の鹿児島県)に到着したのは1549年(天文18年)8月15日のこと。
薩摩藩士で殺人の罪を犯し、マラッカにまで逃亡してきていた「ヤジロウ(池端弥次郎)」との出会いと彼の尽力あってのことでした。
キリスト教信者獲得のための奇策
九州各地や山口、さらには京都にまで足を伸ばすなど布教活動にいそしみます。豊後国(現在の大分県)におもむき、キリシタン大名・大友義鎮(のちの大友宗麟)の庇護のもと、1日2回説法を行った布教活動の成果は大きく、当地のキリスト教徒は600人にも増えました。
しかしザビエルの日本滞在期間は二年と少しだけでした。
ザビエルは行き詰まりを感じていました。
そして、「中国から日本をキリスト教に改宗させよう」というアイデアを実行すべく1552年4月に日本を離れ、戻ることはなかったのです。
中国に向かおうとしたのは「日本人は中国(外国)から来たモノに弱い」という「本質」を見抜いていたからです。
中国人も信仰しているキリスト教という触れ込みが日本人に効く(その前に中国全土の民を改宗させられたら、大手柄ですしね)……と踏んだのでした。
現在でも「アメリカのセレブに人気の◎◎」というような触れ込みの商品に、毎日のように御目にかかることができるのを思い出してしまいます。
ただ、当時のごく一般的な日本人にとって、先進国といえばまずは中国した。
ヨーロッパは日本からは遠すぎるし、異文化すぎて、価値を見出しにくかったのでしょう。
ザビエルが中国に上陸できなかった2つの理由
日本からインドのゴアに出国したザビエルは、マラッカ半島経由で中国本土に向かおうとします。
しかしそこには大きな障害が2つありました。
まず、ザビエルを運ぶための船を、私用で密貿易に使おうとしていたアルヴァロ・デ・アタイデという「悪人」がいたこと。
彼はザビエルの中国出港を阻止しようとしました。
そして、明は日本に先駆けて鎖国を敷いており、入国しようとする外国人やその協力者は厳罰をもって処するという法律をつくっていたことです。
「インド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマの息子」という血筋をひけらかし、いばりちらすアタイデとザビエルは正面衝突しますが、なんとか知人に間に入ってもらうことで船は動きました。
こうして中国領の上川島にこっそり上陸はできたものの、約束していた中国人商人が迎えにこず、わずかな供の者には姿を消してしまうアルヴァロ・フェレイラという男もおり(後に遺体で発見)、ザビエルは困り果てます。
ザビエルは手引きの約束をした中国人商人がやってくるのを待ちわびながら、島の廃屋で4ヶ月もすごします。
しかし待っていた商人は来ず、ザビエルは悪い環境のせいで体調をくずし、1552年11月22日には危篤に陥ります。
そして一説に12月3日午前2時、46歳で亡くなりました。
死の直前、彼は何かをつぶやいたそうですが、ザビエルの故郷の言葉であるバスク語だったらしく、そこにいた誰にも本当の意味がわかりませんでした。
死因も肋膜炎あるいは肺炎ともいわれ、よくわかっていませんし、アタイデもザビエルの死後、拘束された後に処刑されています。
この理由すら明確に伝えられていないのが不気味なんですね。
ザビエルはアタイデから恨まれ、殺されてしまったのではないでしょうか。
いずれにせよ、事件・事故のニオイのする不審死をザビエルは遂げていることになります。
遺体が…世にも奇妙な現象
鹿児島県鹿児島市のザビエル公園にあるザビエル来鹿記念碑 Twilight2640 at ja.wikipedia [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html)], ウィキメディア・コモンズより
死後もザビエルの奇妙な話はつづきます。
ザビエルの遺体は一通りのカトリックの弔いを終えたのでしょう(葬儀に関する記録までありません)、上川島の海辺に土葬にされました。
遺体のままではかさばって持って帰りにくいので、肉が早く腐食しやすいよう、石灰が大量にかけられました。
しかし2ヶ月半後、掘り返して調べたところ、まったく彼の遺体は腐敗せず、まるで眠っているかのように保存されていたそうです。
こうしてザビエルの遺体はマラッカに運ばれますが、さらに2ヶ月後に確かめてみたころ、まったく生前のままだったので、インドのゴアの聖堂内に納棺の後、安置されることになりました。
1554年3月にゴアの信者たちにザビエルの腐らぬ遺体が公開されたとき、事件がおきました。
興奮した群衆が殺到し、ザビエルの足に口づけしはじめたのです。
そんな中、どさくさに紛れてザビエルの足に食らいつき、指を2本も噛みちぎって持ち帰ったイザベラ・ド・カロンという女がいました。
しかもこの女はザビエルの指を肌身離さず持ち続け、家宝としていましたが、ついに亡くなるというとき、そのうち1本をゴアの聖堂にそれを返したいと言い出したのです(ちなみに現在、その指はザビエルの生まれたザビエル城にあります。1902年、ローマ教皇の命令で返還されたそうな)。
残りの1本は引き続き、この女の家族が家宝にしていたそうですが、いつしか人手にわたり、1859年、リスボンでの目撃例を最後に歴史から姿を消したようです。
その後もザビエルの遺体はまったく朽ち果てることもなく、生きているかのような姿のまま残りました。
ローマ教皇による「聖人」認定
キリスト教の伝統では遺体が腐らないのは聖人である証ですから、死後62年を経過した1614年、ときのローマ法王から「彼の遺体が本当に生きているかの如くということの証明をなさい」という命令がゴアに届きます。
人々はザビエルの右手を切り落とし、ローマに送ったのですが、このとき遺体からは鮮血がほとばしったそうです……。
ザビエルの右腕を見たローマ教皇から「ザビエルを本物の聖人とする」という認定がおりると、カトリックの各地の教会からの求めに応じ、ザビエルの遺体から内臓などが次々と取り出され、世界中に信仰の対象である「聖遺物」として送られていきました。
【参考】『聖ベニーニュの聖遺物』/宗教芸術美術館所蔵 / 作者 photography taken by Christophe.Finot [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], ウィキメディア・コモンズより
聖人になってしまうと、その遺体はカトリック教会の共同財産のように扱われるのですね。聖人も楽ではありません。
ザビエルの遺体は、先述のように教会の都合で切り刻まれながらも17世紀頃までは完全に眠っているかのような姿を保っていましたが、その後、水分がぬけ、干からびはじめてしまいました。
現在ではミイラのようになってしまっています。
それでも10年に一度のペースで、ゴアの聖堂でのザビエルの遺体公開は今でも続けられているのです。