日清戦争の最中である1895年(明治28年)は、1月の有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王につづき、12月にも北白川宮能久(きたしらかわのみや・よしひさ)親王の国葬が行われたという稀有な年でした。
しかし、生前から明治天皇に深く信任されていた熾仁親王にくらべ、能久親王はその壮絶な死に様をもって、生前の数々の失態をカバーし、国葬の対象者になりえたと総括できる方かもしれません。
北白川宮能久親王(1847ー1895)
葬儀費用情報 | |
---|---|
1895年(明治28年)12月18日 | 北白川宮能久親王 |
「今般北白川宮殿下薨去の処国葬被仰出候に付右葬儀に関する費用として2万5000円臨時支出」 |
※記載年月日は国葬の最終日にあたる「斂葬の儀(=埋葬の日)」を指しています。
幕末・明治の皇族としては、際立って異色の存在であったのが北白川宮能久親王という御仁です。
徳川将軍の菩提を、増上寺と共に弔う寺として知られる上野・寛永寺は、天皇家の親王を「輪王寺宮(=りんのうじのみや、つまり門跡)」として迎え入れる伝統がありましたが、その伝統も幕府の瓦解と共に終わりました。能久親王は、最後の輪王寺宮として知られる方です。
人情家の能久親王は、朝敵の汚名を着せられ、武力討伐されそうになっている徳川家を憐れみ、上野戦争においては、有栖川宮熾仁親王率いる東征軍(新政府軍)と戦う彰義隊に協力し、彼らと共に上野寛永寺に立てこもりました。
しかし、欧米から輸入した最新式の兵器を用いた東征軍の攻撃に耐えきれず、彰義隊がわずか半日の戦闘で壊滅した後は、日本全国の旧幕勢力が集結する地となっていた会津(現在の福島県)にわずかな伴をつれて逃れ去るなど、当時の皇族としては「問題行動」が目立ちました。
東征軍に投降後は、恭順の姿勢を見せた親王は明治天皇から「罪」を許されているのですが、その後、留学したドイツでは当地の貴族女性との国際結婚を熱望し、それを許さなかった天皇家との関係にまたもや大きな波風を立ててしまっています。
そんな親王の最期は、皇族軍人としての“名誉の戦死”でした。
名誉挽回を図るもマラリアに罹患
しかし、それに至るにはまた数々の紆余曲折がありました。西南戦争鎮圧時にも軍人として失態を犯した親王は、日清戦争での活躍で失点挽回をしたかったのですが、彼が中国大陸に到着したころ、すでに主要な戦闘はすべて終了してしまっていたのです。
台湾ではいまだ戦闘が続いているとの知らせをうけた親王は、「瘧(おこり:マラリアのこと)」の症状が出ていたにもかかわらず、病を押し隠して船に乗っています。
幸いにも台湾に降り立つころには回復傾向にあったものの、病み上がりの身体に戦地の不潔な生活は厳しく、新たに赤痢に冒され、マラリア再発の兆しもあって、予断を許さない状況が続きます。
それでも台南において軍務をつづけた親王ですが、同年10月28日、ついに亡くなりました。
皇族軍人の前線への従軍は、兵士たちの士気をいちじるしくあげていたので、その死は伏せられつづけ、事実の公表は事態に目処がつき、親王の遺体が日本に戻ることができた11月5日でした。
重病の親王が、台湾において軍人として目立った働きが出来ていたかは疑問ですが、前線に近いところに皇族軍人が存在しているという一点だけでも、日本人兵士たちの士気を大きくあげていたのでしょう。それに皇族軍人の戦死は、戦争以後の日本人の意識高揚に大きく寄与しましたから、その意味でも親王が国葬の対象者となったと考えられます。
明治天皇は、国葬においては神式で親王を弔いつつ、親王と関係の深かった日光・輪王寺と上野・寛永寺の両方に仏式の法会を内々に営むよう、指示しています。明治天皇のやさしさが感じられる一幕です。
また、親王が亡くなった台湾においても台湾神宮(台湾神社)、台南神社をはじめとして、親王の御霊を主祭神として祀る神社が多数作られました。しかし、その全てが第二次世界大戦後に廃止されてしまったので、親王の御霊の祭祀は、東京の靖国神社が引き継いでいます。
小松宮彰仁親王(1846ー1903)
葬儀費用情報 | |
---|---|
1903年(明治36年)2月26日 | 小松宮彰仁親王 |
「小松宮殿下薨去せられ国葬被仰出候に付其費用金3万円」 |
※記載年月日は国葬の最終日にあたる「斂葬の儀(=埋葬の日)」を指しています。
皇族から3人目の国葬対象者が出たのは、1903年(明治36年)のこと。
2人目の北白川宮能久親王は、その人生の大半を望む、望まないにせよ”トラブルメイカー”として過ごしつつも、明治天皇からの共感は失っていなかった方でした。しかし、3人目の小松宮彰仁(こまつのみや・あきひと)親王は、明治天皇からあきらかに疎まれていた方だったと伝えられています。
彰仁親王の人生は、若き日から軍務と共にありました。
1881年(明治14年)には、戊辰戦争において「征討総督」を務めた勲功を評価され、家格を世襲親王家に格上げされています。
1882年(明治15年)には、親王は小松宮と改称するのですが、継承問題でトラブルがあり、小松宮家は遺族の嘆願にもかかわらず、彰仁親王の一代限りで終焉することになってしまいました。これも天皇家との関係の悪化が原因だと指摘できるかもしれません。
19世紀のヨーロッパの君主国において、皇族・王族の男子は基本的に職業軍人となり、君主を軍人で支えることが常でした。
こうした海外の事例に学んだ彰仁親王は、明治初期においてすでに「日本の皇族も職業軍人たるべし」との方針を打ち出しています。
しかし、この当時、有栖川宮熾仁親王などの例外を除き、多くの親王たちに軍務経験者はおらず、病弱、老年、未成年、そして先述の北白川宮能久親王のように旧幕側についた過去などが災いし、重職をすぐには担えない方々ばかりが目立ちました。
結果として、成年に達したばかりの皇族軍人・彰仁親王の肩には、軍関係だけでなく、外国事務総裁などの要職までもが重くのしかかることになります。
家格が高い公家たちを、その身分を理由に政府の要職につけた新政府の復古的傾向を、島津久光らと共に糾弾したこともある親王は、明治天皇を批判することも辞さない激しさを持った方でした。
ときの皇太子・嘉仁親王(のちの大正天皇)の婚約問題に介入したり、明治19年、ほぼ全額を皇室による費用負担で頼子妃と渡欧した際には、大量の宝石や衣服を買い込むなどの浪費を重ね、明治天皇から激怒されたこともあります。
そうした問題行動の背景にあるのは、自分が認められるべくして十分には認められていないという親王の不満と怒りがあったともいわれますが……。
1903年(明治36年)、彰仁親王は58歳という若さで亡くなりますが、彼の死をもって、幕末時に軍人として活躍した皇族のすべてがこの世から去ったという事態となりました。明治天皇との不仲にもかかわらず、彰仁親王にも国葬の栄誉が贈られたのは、彼が天皇の長年、参謀総長の職にあったことに加え、そのような歴史背景が影響しているのかもしれませんね。
有栖川宮威仁親王(1862ー1913)
葬儀費用情報 | |
---|---|
1913年(大正2年)7月17日 | 有栖川宮威仁親王 |
「金5万円 国葬費 元帥海軍大将威仁親王殿下薨去に付国葬費支出を要す」 |
※記載年月日は国葬の最終日にあたる「斂葬の儀(=埋葬の日)」を指しています。
皇族からの4人目の国葬対象者は、有栖川宮威仁(ありすがわのみや・たけひとしんのう)親王です。
明治天皇からの信任がとくに厚かった熾仁親王の皇子・威仁親王は、嘉仁親王(のちの大正天皇)の教育係にあたる「東宮輔導」を勤めていました。また、威仁親王は陸軍ではなく、海軍軍人となった最初の皇族です。
しかし、実は病弱であった親王は体調不良に苦しみつづけ、軍人としての功績は高くはありませんでした。明治天皇の崩御の際も任地で寝付いたまま、東京には戻れていません。しかし、それでも親王に国葬という名誉が与えられたのは、大正天皇が、かつての「恩師」威仁親王に強い感謝の念を抱いておられたからでしょう。
1913年(大正2年)、親王は亡くなりましたが、お子様は皇女ばかりで、皇子は一人もいらっしゃいませんでした。養子もおらず、これは親王の代で、有栖川宮家の断絶が決定した瞬間であり、威仁親王の国葬は、幕末から皇室に尽くし続けた有栖川宮家の労をねぎらうものでもあったとも考えられます。
次回に続きます。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
過去の天皇の皇子の子孫であったとしても、今上天皇(現在の天皇)との血統が遠くなると、親王宣下が受けられない=親王の位が与えられなくなる。しかし、世襲親王家の特権を得た家に生まれた男子は、今上天皇との血縁の遠近に関係なく、代々、親王宣下を受ける権利がある。