ドストエフスキー
ドストエフスキー (作家、1821年 - 1881年、享年60歳) | |
死因 | 肺出血 |
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最期の言葉 | 「3時間考えたのだが、今日、死ぬとおもう」 |
1881年2月9日の朝11時頃、ロシアの文豪・ドストエフスキーはとつぜん自分の死亡宣告をしました。
それを聞いた25歳も年下の妻アンナは驚愕したことでしょう。
しかもドストエフスキーは、そのとおりに亡くなってしまうのですね。
昼過ぎから体調が悪化、夜8時には本当に息を引き取ってしまったのです。
もともとペンを拾おうとしたドストエフスキーが本棚を動かしたときに、吐血してしまったのが1月25日のことでした。
それ以降、肺出血を患い苦しんでいました。
ドストエフスキーはこの25歳も年下の美しい妻が、自分の死後苦労するだろうという心配をしながら、亡くなっていったそうです。
酒、タバコ、女、そして大博打・・・・・・望ましくない趣味ばかりの持ち主だったドストエフスキーを「母親になった気分になれば、なんとでも支えられる」などと言って、自分の手のひらの上で泳がせ続けたのが、彼の妻のアンナでした。
彼女は心根が、たくましい女です。
ドストエフスキーは自分の体調を心配すべきだったかもしれませんね。
締切が迫っているのに何も書けないドストエフスキーを助けるため、アンナが口述筆記を務めたことがきっかけとなって二人は結婚しました。
ちなみにこのとき、二人で完成させたのが『賭博者』という短編小説ですから、笑ってしまいます。
トルストイ
トルストイ (作家、1817年 - 1875年、享年58歳) | |
死因 | 不明 |
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最期の言葉 | 「妻だけは私に近づけないで」 |
先ほどのドストエフスキーと並んで人気のロシアの文豪トルストイ。
しかしトルストイの妻ソフィアは、歴史を代表する悪妻の一人として世間的にも有名になってしまっています。
二人が結婚したのは1862年の秋。
34歳のトルストイの新妻は18歳のソフィアでした。
この時点でトルストイには正式な結婚をしていない女性との間に二人も子がいました。
それなのに、ソフィアを選んだのも「自分みたいに顔が悪い男には、美しくないソフィアでちょうどいい」という理由でしたから、驚いてしまいます。
トルストイが二人も婚外子を産ませた相手は、農奴出身で非常にグラマラスな美女だったそうです。
美女といると自分が醜いと思い知らされ、トルストイは苦しかったとか。
身勝手すぎる理由ですが、そもそもトルストイは大金持ちの貴族様ですから許されてしまうわけです。
そんなトルストイが人道派の作家として小説を書き、後には社会運動家として有名になるなんて妻のソフィアにはブラックジョークとしか思えなかったでしょう。
ちなみにトルストイは妻との関係が悪化した結果、自宅を飛び出し、列車に乗り込んで最後の旅に出ます。
そして体調を崩し亡くなるのですが・・・・・・最後の言葉のひとつが、駆けつけてきた妻に対する「妻だけは私に近づけないで」でした。
悪化していた夫婦関係が破綻したのは、トルストイが「私は女に夢中になったことはないが、男には何度も夢中になった」と書いた日記を妻にわざと見せつけてから。
実際に小太りの中年男のチェルトコフという男性編集者と、やけに仲がよいとソフィアが思っていた矢先のことでした。
ちなみにソフィアは「女に夢中になったことがない」夫の子を13人出産、育児しています(流産をいれると16回も妊娠)。
「人生は遊びではありません」・・・・・・これもトルストイ最後の言葉といわれますが・・・・・・ツッコミをいれずにはいられません。
マーク・トウェイン
マーク・トウェイン (作家、1835年 - 1910年、享年75歳) | |
死因 | 狭心症 |
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最期の言葉 | 「じゃあみんなさようなら どうせあの世で会えるから」 |
日本でもアニメ化もされた『トム・ソーヤの冒険』などで有名なアメリカの国民的作家が、マーク・トウェインです。
ハレー彗星が地球で観測された1835年生まれだったトウェインは、「次にハレー彗星が来たときに死にたいね~」などと語っていたのですが、その希望は叶えられてしまいました。
狭心症でトウェインが亡くなったのは1910年、4月21日のこと。
その前日、約76年周期で地球の近くにやってくるハレー彗星が行き過ぎたところでした。
このとき、トウェインは「どうせあの世で会えるから」と言って静かに死んでいきました。
トウェインは、あの世の存在を完全に信じていたのですね。
それもそのはず、トウェインは、イギリスの心霊現象研究協会(The Society for Psychical Research)のメンバーでした。
ちなみにこれはケンブリッジ大学関係者が1882年に設立した、由緒あるオカルト学会で、アメリカ支部もありました。