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コラム エピローグ <偉人たちの最期> presented by 雅倶楽部 2019年7月5日掲載

【キングダム】始皇帝が死んだ本当の理由 <歴史書『史記』のウソ>

歴史上初めて中国全土を軍事統一した「始皇帝(初名「政」)」。漫画『キングダム』の主要人物としても描かれており、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
本稿では歴史書を紐解き、始皇帝の誕生から死までを追ってみたいと思います。

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史上最初に中国全土を軍事統一したのが、その名も始皇帝(紀元前259年 - 紀元前210年)です。

少年時代の名前=初名は「政」。

漫画やアニメとして人気の『キングダム』の主要登場人物としてなら、思い出せる方もおられるかもしれません。

始皇帝は、政が皇帝に即位した後の名となりますが、ここではわかりやすさの観点から、彼を最初から始皇帝と呼ぶことにいたします。

春秋時代の勢力図

EfreedomE [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], ウィキメディア・コモンズより

さて、始皇帝が生まれたのは、数百年以上にも及ぶ春秋戦国時代の末期です。

中国各地に林立した小国同士が争いあい、悲惨な状況となっていました。

長い話をスパッと省略すると、嘆かわしい乱世を始皇帝率いる秦は強大な軍事力によって統一してしまうのですね。

その治世の中で、中国本土で使われる文字、貨幣制度から、重さの単位(度量衡)の統一などを前人未到の偉業を成し遂げました。

しかし能力の高い独裁者ほど、他人に厳しい傾向があるようです。

彼の治世は処刑や暗殺の連続で、血塗られています。

始皇帝本人も暗殺を恐れ、臣下のほとんどに自分の居場所を教えることなく、中国を旅して回るという警戒心を見せていました。

始皇帝はなぜ49歳の若さで死んだのか?!

そんな始皇帝の最大の願いは不老不死です。

臣下を国内外に派遣、不老長寿の仙薬を探し回らせていたようですが、実際に大金をはたいて彼が飲んでいたのは水銀だったといわれています。

水銀は人体に有毒で、脳や神経に異常をきたします。

なまやさしいものではない手足のふるえ、言語障害、めまい、難聴、歩行困難・・・・・・恐ろしい中毒症状を患者は示すといわれます。

結局、始皇帝はアンチエイジングに熱心すぎたあまり、その天下統一から11年後の紀元前210年、49歳の若さで死んでしまいました。

司馬遷

後世の歴史家・司馬遷が記した『史記』によると、咸陽を出て、沙丘(河北省平郷)という地域で、とつぜん倒れたとあります。

こうして紀元前210年9月10日に亡くなるとき、死を悟った始皇帝は遺書がわりの手紙を側近の宦官・趙高に託します。

その中には咸陽にいる長子・扶蘇に自分の葬儀を行うように命令する文があったそうですが、始皇帝の最後の巡行に付き従っていた末子の胡亥はその手紙を握りつぶさせてしまいました。

そして後継者の座を長子・扶蘇から奪うだけでなく、後には自分よりも優秀で温厚な人柄の彼の生命をも奪ってしまうのでした。

知られてはならない絶対的権力者の死

最高権力者・始皇帝の死は、彼の人徳ではなく、恐怖による人民支配に不満をいだく民衆たちから暴動を引き起こされかねない大事件でした。

始皇帝の遺骸も無事には咸陽に戻れなかったかもしれません。

ライバルはすべて抹殺するといった強引すぎる政治手腕、そして儒学者は生き埋めに、儒学の貴重な書物も焼いてしまうといった「焚書坑儒」など、気に入らないものはすべて排除する過激さが、始皇帝にはあったといわれます。

それは、秦の支配を確固たるものにするどころか、民心を離反させつつあったのです。

絶対的権力者が亡くなったと知った民衆がなにをしでかすかがわからないため、部下たちは馬車に始皇帝の遺骸を乗せ、まるで生きた皇帝が乗っているかのようにして運びました。

咸陽までの長旅の途上、遺体がついに腐敗しはじめたため、サカナを買ってきて積み、肉の腐る匂いをサカナの腐臭でごまかそうとしたともいわれます。

ただし、これはさまざまな意味でこの『史記』の話はウソではないか、と筆者は考えています。

始皇帝が仙薬を摂取し続けたに違いないと考えると、彼が亡くなる直前まで健康そのものだったという記述は矛盾してきます。

いや、それ以上に始皇帝の遺体が腐敗したという点こそ、怪しいと思われるのです。

1971年に発見された腐敗しない遺体

その根拠のひとつが、秦の次の王朝・前漢(紀元前206年 - 8年)時代の遺跡だといわれる通称「馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)」に埋葬されていた貴族女性の遺体のデータです。

「馬王堆漢墓」は、病院建て替え工事を行っている際に発見され、1971年から発掘が行われました。

馬王堆という名称はありますが、本当に葬られているのは漢の時代の高級役人・利蒼(り そう、? - 紀元前186年)とその家族です。

1号墓(利蒼夫人が埋葬されていた墓)の帛画

50代で亡くなったと推定される利蒼夫人(=辛追)の遺体は、お棺の中でほぼ、無傷で残されていました。

正確にはミイラにさえなっておらず、身長は生前と同じと思われる154センチ、その肌にはまだ弾力すらあり、防腐剤を注射すると、血管の中を液体が動いていく様子すら目視できる「鮮度」でした。

これも彼女が仙薬として水銀を飲んでいたことの証だと思われます。

その水銀のせいで彼女は体調不良に苦しんではいたのでしょう。

しかし、水銀に全身の細胞が毒されているがゆえに、彼女の肉体は埋葬から20世紀後半に発見されるまでの2100年ほどの間、けっして腐ることがなかったのですね。

おそらく、仙薬と称して始皇帝が日常的に飲まされていたものも水銀でしょう。

すくなくとも地方から秦の都・咸陽にまで向かう旅路の期間の間くらい、彼の肉体は腐ったりしなかったのではないかと推察されるのです。

彼女と同じように仙薬を始皇帝が飲んでいた場合、彼の遺体も良好な保存状態で保存されている可能性があるのですね。

史記・秦始皇本紀

Bjoertvedt [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0) または GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html)], ウィキメディア・コモンズより

そもそも、始皇帝の遺体が腐ったという話や、その暴君ぶりを今日に伝える史料は、秦の次に中国を支配した漢の時代にまとめられた司馬遷の『史記』しかありません。

中国では王朝が変わるたび、歴史が現王朝に都合よく書き換えられました。前の王朝が理想的に描かれることなど、ありえません。

「悪い王朝だったから滅びねばならなかった」という論点にもっていくのが常套手段で、それは漢の時代の『史記』でも同じでしょうからね。

始皇帝の遺体が腐敗したという『史記』の記述も、死してなおカリスマ的存在だった彼の権威を傷つけるための、歴史家・司馬遷による演出ではないかと思われるのです。

中国のサグラダ・ファミリア「始皇帝陵」

Bairuilong [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], ウィキメディア・コモンズより

さて・・・・・・咸陽の近郊に位置する「始皇帝陵」は20000平方メートルにも及び、現在でも高さは47メートルあります。

が、これは約2000年におよぶ雨風による侵食の結果、小さくなってしまった数字にすぎません。

建設当初は118メートルの高さがあったそうです。

このような巨大建築でしたので、始皇帝が亡くなるまでの約11年間をかけて工事されつづけていても、まだ未完成だったそうな。

『泰始皇本紀』に「水銀を以て百川江河大海を為り」とあるように、たいへん高価だった水銀が、湯水のごとくに用いられたとされ、伝承によると、地下宮殿内部、始皇帝の棺のそばにはここぞとばかりに、大量の水銀が流し込まれていたそうです。

1970年代以降、始皇帝陵の発掘調査が行われましたが、このときには広大な地下宮殿の中で、土壌調査から、水銀濃度がとくに高いとされる地域は未調査のままです。

兵馬俑

この1970年代の調査で見つかったのが、約800体にも及ぶ「兵馬俑」です。

日本にも何度か展覧会の目玉として登場したことがありますが、彼らは当時最強を謳われた秦の軍隊組織や戦馬を姿形ともに忠実に模倣した土人形です。

お察しの通り、兵馬俑があるからといって大規模の殉死がなかったわけではありませんでした。

秦帝国の滅亡

皇帝の座を父から受け継いだ末子・胡亥は、父の後宮に仕えていた女官で、子どもを産んでいない女性を全員、そして自分と同じ父の血を引く、ライバルでもある12人の王子・10人の王女たちまで、父への殉死を強制しているのです。

そして、その中には、父が自分の後継者とするべく考えていた扶蘇の名前もあったのです。

司馬遷の『史記』には正確な人数が記されていませんが、始皇帝の殉死者はおそらく、陵墓全体でいえば、数百人いや数千人規模だったのではないでしょうか。

こうして始皇帝の死は、おそらく本人が考えていた以上に血塗られたものとなりました。

「残虐さ」以外では父親に似ない暗君・胡亥のおかげで、秦帝国はたった二代で滅亡してしまうのです。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

ちなみに、始皇帝の陵墓の財宝は、項羽という武将の手によって早々とすべて盗掘されてしまったともいわれていますが、その「伝説」の確証はいまだ、陵墓全体の調査が終わっていないため、取れてはいません。

余談ですが、項羽は始皇帝が滅ぼした楚という国の元・王族でした。

恨みとは本当に恐ろしいものです。また、項羽の全国支配の野望を挫いたのが、後に漢を建国することになる劉邦です。

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