「黄泉がえり?陰陽師も頼った『魂呼(たまよ)びの儀式』」でも触れたように、日本とおなじく中世ヨーロッパでも、身体がどんな状態になれば死が訪れたかどうかを判定できる基準は存在していませんでした。
医者の地位があまり当時高くなかったからでしょうか、庶民の場合は知恵者として知られる近所の年配者が呼ばれ、彼(彼女)によって死が宣告されました。
死亡確定後の儀式の流れ
呼吸が止まっている、死後硬直が起きている、場合によっては屍臭がするなどの理由で「本当にこの人は亡くなった」と断定されてしまうと、故人の家族たちの手によって、死者の身体を洗ってあげる「湯灌(ゆかん)」が儀式的に行われます。
ちなみに当時のヨーロッパでは、貴族も庶民もベッドに入るときに寝間着を着たりしません。
裸で寝ることを宗教上の理由で禁じられていた聖職者以外は、健康な人も病人もみな丸裸でベッドに入る習慣がありました。
このため、死亡確認が遅れ、遺体が死後硬直の状態になってしまっていても、服を脱がす手間がかからなかったのですね……。
さて湯灌が終わったあと、故人は経帷子(きょうかたびら)を家族に着せてもらいます。
経帷子は、故人が元気なうちから自分で用意しておくべきものでした。中世ヨーロッパでは経帷子を持って巡礼し、各地の教会などを旅して回ることまで流行りました。
死んだ後、その経帷子に包まれている自分の姿を考えながら旅行してまわるというのは現代人にとってはなかなか想像しにくい行為ですが。
当時、さかんに教会が提唱した「死を想え(メメント・モリ)」……人間いつ死ぬかわからないのだから、はしゃぎすぎるなよ的な発想が行き渡っていたのだと思わせられます。
こうして故人は生前からの自分の想いのつまった経帷子を家族の手で着せられ、お棺に入るのでした。
遺体埋葬は最短で…合理性が優先された中世ヨーロッパ
ちなみに中世ヨーロッパでは人が亡くなるとその遺体の埋葬までの時間は長くても三日、早ければ当日中にでもコトは進みました。
とくにイタリアなど温かい地域や季節であればあるほど、埋葬までの時間は短くなる傾向がありました。
遺体が腐敗する前に、という現実的な問題からです。
中世の日本では死者が生き返るかもしれないという願いなどをこめて、遺体を埋めたり、焼いたりせず、風葬にしていたのとはある意味、正反対。中世の時点でヨーロッパの人々の死に対する姿勢は、非常に合理的だったといえます。
また、日本でいう通夜に相当するイベントがあるのは、葬儀の段取りがつきにくい午後遅めの時間以降に死が訪れた場合だけ。
しかし深夜には悪霊や悪魔が死体を奪いにくると考えられていたため、故人の家族たちは寝ずの番を遺体の傍でしていなければなりませんでした。
しかし中世ヨーロッパの場合、いわゆるお通夜でもしめやかな雰囲気などはなく、教会がいくら禁止したところで飲めや歌え、さらには踊れとばかりのバカ騒ぎが繰り広げられたそうです。
日本と変わらず?!葬列は故人のステイタスアピールの場だった
ものわかりのよい故人の場合、遺言状に「守り役」として、自分の遺体と共に朝まで過ごしてくれる者たちの宴会費用をいくら用意しているという記載をしていることすら珍しくはありませんでした。
さて、朝がやって来ると故人の遺体の入ったお棺は家族たちの手によって教会に運ばれます。
この時は故人の自宅まで聖職者たちが訪れ、教会まで葬列が組まれるのですが、中世ヨーロッパでも葬列は日本と江戸時代の場合と同じで、故人のステイタスを世間にアピールできる場でもありました。
それゆえ、とくに多少なりとも裕福な人の場合、自分の葬列を自らプロデュースし、そのための予算を遺産の中で組んでおく必要がありました。
高級品だった松明や蝋燭の数などからはじまり、大げさに泣きわめき、葬儀の悲しさをもりあげてくれる「泣き女」の有無、謝礼を払って教会から来てもらう修道士や聖職者の人数にいたるまで、どこにどれだけの出費をしてもらいたいかをすべて自分で細かく決めておかねばならなかったのです。
こうして通夜までの陽気なムードは故人の家から教会に向かう葬列から失われ、静かな鐘の音と、雇われた泣き女たちのすすり泣く声が陰鬱なムードを醸しだしました。
その後、遺体は教会で最後のミサを受け、教会の裏手にある墓所に運ばれ速やかに埋葬されました。
衛生上の理由は先ほど説明しましたが、速やかである理由は他にもありました。
多少なりとも裕福な人の場合、重大な遺言が公開されるのは埋葬後の墓地でした。誰にいくら贈与するとか、故人の継承者や遺言執行人を誰にするかという「真実」は埋葬後にならないとわからないシステムだったのです。
埋葬が完了するとあらためて遺族たちの会食が行われます。故人の遺言どおりの席次にしたがって、家族や縁者はテーブルにつくことになったのでした。
中世ヨーロッパでの葬儀は、故人の死を悼むという情緒的な側面だけでなく、新しい家族内秩序を確認する場として重視されていたといえるでしょう。
とくに中世初期のキリスト教徒の感覚では、ある人の死は、イエスや聖母マリア、あるいは聖人たちの御もとに魂が行くことができるという、むしろ喜ぶべきことですらあったので、お葬式の悲壮感もうすかったのかもしれませんね……。
時代だけでなく場所や地域が変われば、お葬式の常識もずいぶんと異なるものです。