ハリウッド映画がもっとも輝いていた、1950年台のアメリカ。
そのトップスターの一人が女優マリリン・モンローでした。
しかし彼女の人生は順風満帆なものではありませんでした。
貧しい幼少時代にくわえ、若くして結婚離婚を繰り返すなど、私生活に波乱が多く、女優としてもデビュー直後はパッとしないため契約を打ち切られたり散々でした。
そんなモンローがようやく出会った当たり役は、「セクシーなブロンドのかわいこちゃん」のキャラクターでした。しかし、これは彼女にとって様々な意味で「重荷」だったのです。
本当の彼女はブロンドではなく、褐色の髪の持ち主でした。
映画女優になってから繰り返し染め続けなくてはならず、髪、頭皮ともにボロボロになってしまっていました。
同時に、彼女の心も・・・・・・。
ヒット作の出演もままならないほどのストレスの原因は?
マリリンはその不幸な生い立ちも影響し、学歴という点では高校中退でしたが、実は知的な女性で読書家でした。
演技の勉強も真剣にしています。
ですから、男性の思うがままになってしまう、考えの足りない、かわいいだけの女ばかり演じなくてはならないことを心の底では悲しく思っていたのです。
それはわれわれが考えるよりも、彼女には深刻なストレスの源でした。
マリリンの出演作品では最大のヒットである『お熱いのがお好き』というコメディ映画の撮影中のことです。
彼女にとって演技をすること自体が難しくなりはじめていました。
監督や他の出演者にはよくわからない理由でマリリンが数時間、撮影に遅刻することはザラ。
台本もなかなか覚えられなかったのです。
原因は睡眠薬の常用でした。
離婚のストレスで不眠症となり、そのときに覚えてしまったのですね。
「睡眠薬を昼間に?」と思われるかもしれませんが、20世紀半ばのアメリカで処方されていた睡眠薬は、非常に中毒性が高い「セコナール」と呼ばれていた錠剤でした。
これが、ボンヤリとした多幸感をもたらしてくれるのです。
『お熱いのがお好き』撮影時のマリリンは一日、20錠もセコナールを常用していました。
さらにウォッカやシャンペンまで常飲していたそうです。
『お熱いのがお好き』の中のマリリンは、そんな素顔をいっさい感じさせない明るい歌姫を演じているのですが・・・・・・それこそ演技ですべてをカバーできていた状態にすぎませんでした。
Arthur Miller
1961年、3番目の夫にあたる劇作家のアーサー・ミラーとの離婚時にはマリリンの精神は崩壊というべき状態になってしまいました。
通いの美容師の証言によると、掃除もロクにしていない家に閉じこもり、外出もせず、さまざまなクスリが入った瓶のラベルに知り合いや男友だちの名前を書いて過ごしていたというマリリンですが、単純にミラーとの離婚で傷ついていただけではありません。
何年にも及んだJ.F.ケネディとの「大人の関係」に悩んでいたのです。
深まる男性依存 <J.F.ケネディとの出会い>
マリリンは、自分に足りていない何かを付き合う男性によって補完しようとするクセがありました。
ケネディは権力や強さを彼女に与えてくれる存在でした。
しかしJ.F.ケネディは、彼女に依存される関係に音を上げます。
マリリンにも悪いところはありました。
ケネディに電話し、彼の妻・ジャクリーンがホワイトハウスで計画しているパキスタン大統領を歓迎する晩餐会に自分を正式に招待してくれなどと迫り、断られたりもしています。
それなのにケネディは、何か異常なものをマリリンに感じていた妻ジャクリーンから「マリリンとだけは別れて」といわれていたにもかかわらず、それを実行できずにいたのです。
結局、J.F.ケネディとの関係が終わったのは1962年5月29日、ケネディの誕生日の祝賀会で「ハッピーバースデー・ミスタープレジデント」と歌った直後のことだったようです。
ケネディの妻・ジャクリーンは、マリリンが歌うと聞いて誕生祝賀会を欠席。
あの有名な華やかなシーンのウラ側には男女の情念がほとばしっていたようですね。
ステージの後、ケネディのホテルの部屋に招かれたマリリンですが、その後、二度と彼からの連絡はなかったそうです。
おそらく破滅的な口論になったのではないでしょうか。
嘆くマリリンを支えたのが、J.F.ケネディの弟のロバートでした。
ロバート・ケネディは当時、兄の下で司法長官を勤めていましたが、もともと夫婦そろってマリリン・モンローのファンでした。
ロバート・ケネディの妻・エセルは、彼女の伝記映画の企画があった時(結局ボツになりましたが)、自分を演じる女優としてなんとマリリンを推薦するなど、彼女に憧れていたようです。
J.F.Kの弟とも…
ところがマリリンはロバートとも「大人の関係」になってしまいました。
ロバートとマリリンが出会い、急接近したのは1962年2月1日の夕食会でしたが、その席上でマリリンはロバートに対し、「司法長官のお仕事ってなんですか」という質問を口紅で書いた紙を取り出し、子どもっぽく無邪気に聞いたそうです。
「頭の足りない、セクシーでかわいい女」を演じることを嫌悪すらしているのに、女優の仕事がイヤになっていったのもそういう役しか回ってこなくなったからなのに、ここぞという男性の前では必ず、マリリンはそんなキャラクターを演じてしまうのですね。
当然ながら、ロバートとの恋もマリリンを救うことはできませんでした。
マリリンが謎の死を遂げるのはそれから少ししてからです。
1962年8月5日朝、ロサンジェルスの自宅でマリリンが冷たくなっているのを家政婦が発見します。
トーマス野口博士の死体解剖によって、マリリンは当時の睡眠薬の主成分であるバルビツール酸の過剰摂取による中毒死だったとあきらかになりました。
しかし、致死量となるまで睡眠薬を摂取したにもかかわらず、彼女の胃は荒れておらず、腎臓の数値も健常でした。
トーマス野口は「マリリンは口から睡眠薬を飲んだのではない」と考え、詳しい組織検査を依頼しますが、上司からは「事故で組織は台無しになってしまった(だからこれ以上のマリリンの組織検査はできない)」といわれてすべては終了してしまったそうです。
実は暗殺だった?マフィアによる証言
ちなみにアメリカのマフィアの大物だったサム・ジアンカーナは回想録を残しており、CIAから依頼され、マリリンに睡眠薬の成分を濃縮させた座薬を入れたという不穏な証言を残しており、これが一番状況証拠に合致しているわけです。
なぜCIAが、マリリンを暗殺せねばならないかというと、マリリンはケネディ兄弟が語った国家の極秘情報をいくつも知っており、それを公の場でペラペラと喋る姿が何回も目撃されていたのです。
マリリンの死が確認された8月5日にはロバート・ケネディに何回もマリリンが電話をした記録、そしてロバートがヘリコプターでマリリンの自宅あたりにいた記録も見つかっています。
ただし、その謎めいた二人の行動がどういう意味を持っていたかは不明なままなのでした。
マリリン、36歳(映画会社には34歳と言っていましたが)の死でした。
彼女の死因にはこのように諸説あり、それが自殺にせよ他殺にせよ、マリリンの心身は大きくバランスを崩しており、もはや長くは生きられない状態だったような気がしてなりません。
マリリンの葬儀はことさらに悲しいものとなりました。
葬儀は8月8日、ハリウッドにあるウエストウッド教会で行われましたが、参加したのは約30名の人たちだけでした。
映画関係者はマスコミは一切シャットアウトされ、マリリンの二番目の夫で再婚を真剣に考えていたという野球選手のジョー・ディマジオが、葬儀を取り仕切ったのです。
彼は地中にマリリンのお棺が埋葬される瞬間まで「愛している」とささやき続け、マリリンのお墓に週3回、アメリカン・ビュティーという品種の赤いバラを20年も届け続けました。