伊達政宗
伊達政宗「曇りなき心の月をさき立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」
「わたしのこころに宿る月。その曇りなき輝きをもって、死後の道の闇を照らしていこう」……とでも訳しておきます。
死を目前にしても、優雅とすら言ってよい、伸びやかさが特徴的な辞世だと思います。
辞世は多くの場合、死を覚悟したときに用意しておくものなので、本当に死を間近にした本心とは異なる部分も多々あります。
政宗もお付きの者に「戦場では死ねず、生きながらえた。そして病気に冒され、布団の上で死ぬことは残念だな」と呟いたことが記録されていますからね。
政宗は長生きしたぶん、彼が亡くなった時は徳川家光の治世になっていました。
戦国を世を知る武将の最後の生き残りとして、深く思うことはあったのでしょう。
政宗が亡くなる1636(寛永十三)年5月24日の早朝、彼はいつもと同じように床から起き上がり、髪を整え、顔を洗って身なりを整えました。
そして自分の死に顔をみだりに人に見せるなと厳命し、西に向かって合掌。
その後、床に再び入ると二度と起き上がることはなかったそうです。
豊臣秀次
豊臣秀次「月花を 心のままに 見尽くしぬ 何か浮世に 思い残さん」
「この世の雅なことはすべて楽しみ尽くした。もう何も思い残すことはないよ」という穏やかな辞世の歌からは想像もできない無念の死を、1595(文禄4)年7月15日 、豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)は遂げています。
享年28歳、若すぎる死でした。
かねてより謀反の罪を彼の叔父にして養父・秀吉に疑われ、高野山にこもっていたのですが、秀吉の怒りは最後まで収まりませんでした。
彼の人生の「すべて」を決めたのは彼の叔父・豊臣秀吉です。
秀吉の養子として、関白の位をついだ秀次ですが、彼の運命が狂ったのは、1593(文禄2)年、秀吉と側室・淀殿のあいだに、秀吉に実子・秀頼が生まれてしまったから。
「養子ではなく実子に跡を継がせたい」と秀吉が思い始めるのも当然ですが、「実子の将来の妨げになるかもしれない養子は生かしておけない」という発想は異常です。
こうして無実の謀反の罪を着せられた秀次は切腹、そして彼の妻子までもが(ほぼ)全員、処刑されるという異常事態になってしまったのでした。
直江兼続
直江兼続「天上人間一様秋(=季節も人間も同じように秋を迎えるのだ)」
大河ドラマ『天地人』で「愛」の武将として有名になった直江兼続。
豊臣秀吉から士官の誘いをうけたこともありましたが、上杉景勝に仕えつづけました。
豊臣家に味方し続けたことが裏目に出て、江戸時代の上杉家はいわば「厳冬の時代」を迎えていました。
直江は減らされた領地の収穫量をなんとかカバーするべく、農業を指導するなど頑張ったわけです。
さて、教養人として知られる直江の趣味のひとつが漢詩でした。
直江が亡くなる4ヶ月ほど前に作ったという記録のある詩の最後の句を、「彼の最後の言葉」として今回は引用しました。
最晩年にあたる元和五年 (一六一九) 秋・八月十五日、直江は秋の日に名所旧跡を訪れたことを思い出していたようです。
「天上人間一様秋」は、「てんじょうじんかん いちようの あき」と読みます。「季節も人間も同じように秋を迎えるのだ」と訳してみました。
……直江に残されていた時間は、あと4ヶ月ほど。
過去の幸福な記憶と、自分の人生の「秋」をむすびあわせた穏やかな表現をしていますが、三人の実子にあいついで先立たれた直江には跡継ぎがいませんでした。
しかも直江は養子を迎えるという選択をせず、家を断絶させると決定していたのです。
跡継ぎがいなくなるのは運命であり、それに逆らうよりも、窮乏している主家・上杉家に自分の所領を戻して助力しようとしていたと伝えられます。
上杉景勝の肖像画
そんな直江の死を、主君・上杉景勝は嘆き悲しみ、周囲が心配するほどやつれてしまいました。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
「秋」は普通なら収穫の季節ですが、生涯の総決算の時期と読むことも出来ます。