豊臣秀吉や徳川家康といった「天下人」が、もっとも警戒していたといわれる戦国武将・黒田孝高。
2014年度のNHK大河ドラマの時には「官兵衛」と称されていたので、本稿でも官兵衛と彼のことを呼ぼうと思います。
大河ドラマであまり強調はされませんでしたが、黒田官兵衛は熱心なキリスト教徒でした。いわゆる「切支丹大名」の一人ですね。
そんな「切支丹大名」官兵衛のお葬式は二回、それもキリスト教式と仏教式の二回で行われています。そして、それぞれに謎を含んでいるのです。
ちなみに官兵衛の時代には、キリスト教信仰はおおむね認められていました。
たしかに官兵衛の死の7年前にあたる天正15(1587)年、豊臣秀吉による「バテレン追放令」が出されはしています。
しかしこれは、大名がキリスト教徒でも、領民に改宗をせまってはいけないという内容が主で、信教の自由はまだ残されていました。
勘兵衛の華麗なる葬儀が原因でキリスト教への改宗者も
官兵衛が亡くなったのは、慶長9年3月20日(1604年4月19日)のこと。諸説ありますが、地元・博多を離れ、京都の伏見に滞在時の死だったといわれています。
「官兵衛は瞑目するに先立って、嫡子長政に命じてその遺骸を博多に送り、先に黄金千枚を寄付して、かの地(博多)に新築した寺院に埋葬させた(シュタイチェン『キリシタン大名』)」との記録も残されています。
しかし、現時点で、官兵衛が埋葬された土地にも諸説がある段階なんですね。
官兵衛はかねてから「私はキリスト教徒として死にたい」と、嫡男・長政に遺言していたのでした。
そして、長政も愛する父のために荘厳なキリスト教式の葬儀を執り行ったという事実が複数の宣教師たちの記録に存在しています。
官兵衛の葬式に参加した、マトス神父という人物がその約20年後に次のような回想録を残しています。
「彼の遺体が上方から博多に到着した時、わずか数日のあいだに極めてきれいに装飾のほどこされた(略)小さな葬台ができあがった」。
福岡藩公式史【黒田家譜】には絶対に載せられないハナシ
一方、キリスト教の葬式から15日ないし20日経過した頃に執り行われたのですが、また官兵衛のキリスト教式のお葬式を取り仕切ったマトス神父によると、仏式の官兵衛のお葬式も「極めて盛大」だったそうですが……奇妙なことに、福岡藩の公式史『黒田家譜』には黒田官兵衛の葬式の記述は仏式のみ、それもごく簡潔な記述しかありません。
兵衛の死後かなり経ってから、寛文11(1671)年以降に編纂開始された本であることは理由にはなりません。
官兵衛の息子・長政の仏教式の葬式についてはかなり詳細に記述があるからです。
キリスト教式のお葬式の記述が『黒田家譜』にない主たる理由は、『黒田家譜』が編集されはじめた時期にはすでに、キリスト教の信仰が禁止されていたから、とされています(ちなみに幕府がキリスト教を禁教にしたのは1612年)。
しかしなぜ、官兵衛の仏教式の葬式についてまで、しかも実際にはそれが豪華な式だったらしいにもかかわらず、簡素な記述だけしか『黒田家譜』には載っていないのでしょうか。
当時の人々には葬式こそがその人の人生のハイライトであるという認識がありました。
官兵衛のキリスト教式の葬式を見て改宗してしまった「兵士の若者」がいたとさっきご紹介しましたが、それくらいに葬式が、故人がいなくなった後の世界に残す意味は大きく感じられていたのです。
筆者が推察するに、官兵衛の死にまつわる全てに謎が不自然につきまといすぎいるのは、官兵衛の死に絶対的なタブーが含まれているからなのでしょう。
そのタブーとは、官兵衛がキリスト教式のお葬式を望んでいたことだと筆者には考えられます。
キリスト教徒としての死を望む不都合な真実
筆者の想像ですが……官兵衛がキリスト教徒だったという事実が、そこまでタブー視されるようになったのは、寛永14(1637)年の農民一揆「島原の乱」の記憶が大きかったのではないかと思われるのです。
『黒田家譜』が編纂されはじめた寛文11(1671)年からさかのぼること約34年前、現在の長崎県の島原地方で勃発したのが「島原の乱」です。
教科書的に説明すれば、「島原の乱」は、現在の長崎県にあった島原藩の農民らが重税に苦しみ、キリスト教の信仰で結ばれ、立ち上がった農民一揆なのですが、実は日本史上最大の内乱なのです。
その鎮圧には福岡藩の黒田家も幕府の命によって駆り出され、協力させられています。
鎮圧には成功しましたが……投降したのはたった数名~数十名程度で、それ以外の約37000人のキリスト教徒の命が、「殉教」という美名のもとに失われる酷い結果となりました。
そんな悲惨な島原の乱の後、「キリスト教のおしえのせいで、農民たちが結託して反抗した」「キリスト教は恐ろしい宗教」……「島原の乱」以降の福岡藩関係者にそんな悪印象が強くなってしまったのでしょう。
そのキリスト教を、尊敬されている黒田官兵衛が信奉していた事実だけは、とにかく隠蔽してしまいたいと後世の福岡藩関係者が願っても仕方がないのです。
官兵衛の葬式について、キリスト教式はもちろん、仏教式の記述すらできるだけ簡素にしてしまったのも、「キリスト教徒として死にたい」と官兵衛が思っていたという、後世の者にとっては「不都合な真実」から読者の意識を引き離そうと苦慮した結果では……と筆者には想像されます。そもそも『黒田家譜』には、官兵衛が切支丹大名だった事実すら、伏せられているのですから。
官兵衛の葬儀を巡る謎、読者の皆様はどうお考えになりますか?