生涯2回、それも異なる分野でノーベル賞を受賞した数少ない偉人、マリー・キュリー。いわゆるキュリー夫人です。
思い込んだら一直線の彼女は、科学研究を生きがいにしていました。
ポーランドの貧しい家に生まれながらも、努力を重ねてフランスのパリ大(ソルボンヌ)に留学、のちに移住。
研究に疲れたら数学の問題をといてリフレッシュという常人とはまったく異なる頭脳の持ち主でもあったのです。
生涯に渡る研究素材の発見
オリジナルのアップロード者は英語版ウィキペディアのKgrrさん [CC BY-SA 2.5 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5)], ウィキメディア・コモンズ経由で
彼女の同僚の研究者アンリ・ベクレルが、ウラン鉱石から「謎の光線」が出ているのを発見したのが1896年のこと。
報告を聞いて「これだ!」と直感が働いたマリー・キュリー(以後「マリー」)は、すぐさまピッチブレンドといわれるウラン鉱石を8トン(!)も取り寄せます。
1897年から1902年にかけ、マリーは夫のピエール・キュリー(以後「ピエール」)とともに、大学から与えられたボロ小屋の中で放射線を発する、合計8トンものウラン鉱石を手づかみで粉砕しつづけます。
そしてさまざまな薬品を使い、ミステリアスな輝きの成分をウラン鉱石から抽出しようと必死になりました。
ウランが発する謎の光は、マリーにとっては魅惑の輝きだったのです。
そして、その結果、発見されたのがポロニウムとラジウムという新たな放射性元素でした。
これらの放射性元素を発見したとき、マリーは喜びの手記を書きました。
その「美しい」ラジウムこそが、彼女から夫、そして後には娘の命をも奪い去ってしまったのですが・・・・・・。
謎の輝く物質を抽出成功したマリー目当てで、報道陣が研究室という名のボロ小屋に殺到します。
マリーは当初、逐一説明を繰り返しましたが、そのうち報道陣や大衆の無知さに疲れ、適当に受け流すスキルを身につけてしまいました。
彼女にとっては研究こそが大事なのです。
こうして、マリーの研究が有名になるほどに、そして彼女が受け流してしまったがゆえ、年を重ねるごとに放射性物質を含む特許医薬品は増えていきました。
スーザン・クインの研究によると1929年時点のヨーロッパで、特許医薬品としてだけでも八十品目も発売されています。
入浴剤、座薬、ハミガキ粉・・・・・・さらには放射性物質の薬効で薄毛や白髪を治す「キューリー・ヘアトニック」、「マリー先生が永遠の若さを約束する」若返りクリームさえ発売されていたのです。
ノーベル物理学賞 授賞式欠席のなぜ
さて、話を2つの放射性元素発見の翌年である1903年、マリーにノーベル物理学賞が与えられたときに戻しましょう。
共同研究者である夫のピエール・キュリー、そして同僚のアンリ・ベクレルとの同時受賞でした。
しかしマリーとピエール夫妻はストックホルムでの授賞式に『健康上の理由』で向かうことができませんでした。
確実に放射線が彼らの健康を蝕み始めていたのです。
ラジウム(Ra)
grenadier [CC BY 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by/3.0)], ウィキメディア・コモンズより
マリーはポロニウムとラジウムを「私の子ども」と呼びました。「こんなに美しいものが有毒であるはずがない」・・・・・・マリー特有の思い込みの強さは、数々の発見にもつながりましたが、悲劇を数多く呼び込みました。
とくにピエールに健康被害は強く出ました。まともに歩けなくなり、1906年にはどしゃぶりの雨の中、6トンも軍服を積んで走る馬車を避けきれずに轢かれ、ピエールは即死してしまったのです。
マリーは、ピエールにノーベル賞受賞科学者にふさわしい重厚なお葬式を・・・・・・という周囲の勧めを断り、故人が好んだ静かな式を、親しい人たちだけで行います。
いわゆるスピリチュアル系の感性の持ち主でもあったマリーは、葬儀の思い出を次のように語っています。
平安と、苦痛の中でも勇気をもって行きていくという直感のようなものが。
あれはただの幻だったの? それとも私を励まそうとしてあなたが発したエネルギーが、閉じた棺の中に満ちていたのでしょうか」
感動的なシーンに水を差すようで恐縮ですが、エネルギーといえば確かにキュリーの遺体から、相当なレベルの放射線が流れ出していました(現在でも漏れ出しています)。
まぁ、マリーにとっては放射線はピエールと見つけた夫婦愛のパワーみたいなものなのですけれどね。
亡き夫の弟子との不倫愛
マリーは恋愛体質でした。
夫亡き後は、夫の元・弟子でハンサムなポール・ランジュヴァンと熱烈な不倫愛に陥ります。
Paul Langevin. Photograph by Henri Manuel.
Henri Manuel [CC BY 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by/4.0)]
ランジュヴァンは結婚していたので、ランジュヴァン夫人のジャンヌは夫とマリーの「関係」に気づくと激怒、「殺してやる」とすらつぶやいて復讐のチャンスを待ち続けました。
1911年のノーベル化学賞はマリー単独での受賞に内定していましたが、この発表の3日前というタイミングで、ランジュヴァン夫人は攻撃に出ます。
マリーとランジュヴァンの不倫愛の事実を、彼らが交わしたこっぱずかしいラブレターなどとともに世間の公表したのです。
世間は大いに湧き上がり、生命をかけた決闘事件が2回も起きました。
ひとつはいわば「科学的アイドル」だったマリーの大ファンの某誌編集長と、マリーを手ひどく叩いたまた別の雑誌の編集長が剣で殺し合いをしたこと。
もう一つは、渦中の人であるランジュヴァンと、彼を侮辱した記者がピストルで撃ち合おうとしたこと。
殺し合いは寸前で回避されましたが、実に物騒なものでした。
マリーは悩みますが、彼女の何倍も不倫経験に長けた、あのアインシュタインが激励の手紙を書いてきたので、ノーベル賞を受賞することになったそうな。
最期の言葉は「私のことは、ほうっておいて」だった?!
マリーの人生は、人の何倍もの密度で進んでいったのですが、そんな彼女にも最後の日が来ます。
1934年7月4日、ついに再生不良性貧血によってマリーは亡くなりました。66歳でした。
手づかみでラジウムを取扱い、口に咥えたペピットでラジウムを溶かした液体を吸い上げるという生活をマリーは何十年も続けていました。
晩年になるにつれ指先は黒ずみ、ひび割れ、感覚がなくなり、耳鳴りがひどくなりました。
身体はやせこけ、目も見えなくなったのです。
マリーは歩く放射性物質のようになっていました。
彼女の遺品からは、たとえば研究室の器材やノートはおろか、彼女が使っていた料理のレシピ本からも相当量の放射線が現在もなお放出されており、その閲覧にはフランス政府の許可がいるし、特別な防護服をまとわねばならないくらいです。
そんな環境の下でもマリーはなんとか生き続け、研究を続けていたのは凄まじい執念ですね。
臨終の席にあっても自分が死のうとしている事実を認めようとしませんでした。
「新鮮な空気を吸わせてください(そうすればこんな不調は治る)」と訴え、最期の言葉は「私のことは、ほうっておいて」だったという説も。
簡素な葬儀の後、自宅近くのソー墓地に夫と並んでマリーはひっそりと葬られていました。
しかし彼女の死から約60年後の1995年、当時のミッテラン大統領の声がかりで、ヴィクトル・ユゴーなどフランスの偉人の眠るパンテオンへの移葬が遂行されています。
ちなみにこの時、そこらかしこに張り巡らされたトリコロールと呼ばれるフランス国旗の三原色ですが、放射能の三原色(αの青、βの白、γの赤)と同じでした。
ひとりの女性の活躍を讃えるという理由でしたが、草葉の陰で眠っていたマリーはそれこそ「ほうっておいて」と言ってそうですけどね。