今年2018(平成29)年は、「明治維新150年」にあたります。(執筆時点)
明治新政府の発足とは徳川幕府の瓦解に他ならず、大勢の武士たちが路頭に迷うことになりました。
18歳で一家の大黒柱に
現在では五千円札の顔として、文学に疎い方でもチラチラと顔を知っていると思われる明治期の女流作家・樋口一葉も、維新の余波をくらった一人です。
彼女の実家・樋口家は下級武士でしたから。
しかも1887(明治20)年に兄の泉太朗、そして1889(明治22)年には父の則義を失うことになった樋口一葉は、18歳の若さで樋口家の世帯主となり、傾いた家運にあらがい、母や妹たちといった家族を養わねばならない運命とむかいあわざるを得なくなります。
一葉が作家を志したのも、「小説でヒットを飛ばすことを目指せば、職歴・学歴、そして体力がとぼしい自分でも何とか稼げるはず」という見込みでしたが、現実は甘くありません。
執筆は進まず、現代の台東区にあたる下谷・竜泉寺町で駄菓子屋の商売をはじめますが、失敗してしまいます。
1894(明治27)年、現在の文京区にあたる本郷区丸山福山町に樋口家は引越し、一時は止めていた執筆を死にものぐるいで再開します。
それから約2年間のうちに、一葉は『にごりえ』『たけくらべ』など文学史に残る傑作の数々を一気に書き上げていくのですが……彼女には時間がほとんど残されていませんでした。
1896(明治29)年の春ごろから体調不良が深刻となり、信頼できる医者にようやくかかったのは8月はじめでした。
診療結果は、末期の肺結核でした。
当時、肺結核は死の病でした。
そして一葉の寿命は、のこり3ヶ月もありませんでした。
同年11月23日朝10時ごろ、25年の短すぎる生涯を静かに終えてしまったのです。
惜しいことにその死の直前あたりから天才女流作家・樋口一葉の作品は、森鴎外ら文豪からも高く評価されはじめていました。
体面にこだわった元士族の意地
明治の頃は、死亡通知を文書で送るようなことはしません。故人の関係者の自宅を、家族らが直接訪ね、口頭で死亡を伝えるのでした。
森鷗外/国立国会図書館所蔵(wikimedia commonsより)
一葉の死を知った(そして、樋口家の比較的近所に住んでいた)森鴎外は「葬儀に参列したい」と言うのですが、樋口家の人々は森鴎外の厚意を言下に断りました。
鴎外は葬列に加わるのではなく、自分は馬にまたがった状態で、一葉の葬列を見送りたいと言っただけなのですが、それでも断られてしまったそうです。
娘の文学の師匠であるだけでなく、森鴎外といえば明治政府の軍医のエリートなのに、そんな人の厚意を……と思ってしまいますが、明治維新で没落した士族・樋口家としてはそれが精一杯の抵抗だったのかもしれません。
樋口家は士族の身分を誇りにしている一方、身分にふさわしくない困窮を恥じていることで有名でもありました。
先述のとおり、「十分なおもてなしが出来ないのが恥ずかしい」という理由で、弔問希望の人たちの大半をお断りした一葉の通夜は、わびしさの極みでした。
通夜の翌日、一葉の遺体は輿に乗せられ、彼女が通っていた私塾時代からの女性の友人2人の他は、家族・親族10人あまりに付き添われながら、築地の本願寺まで移動します。
明治時代のお葬式の中でもっとも重視され、派手に執り行うことがステイタスシンボルになっていた葬列にこそ、樋口家はなけなしの金をつぎ込みました。現在の考え方とは少々異なり、当時の葬儀はあくまで、“家”の威信をかけた一大イベントという位置づけなのです。
明治期の中流以上の家の葬列は、現代人の我々には奇妙に思えるほど派手で豪華でした。輿に乗せられた死者と共に多くの人々が街を練り歩き、途中で鳥を籠から解き放って飛ばしたり、参列者に豪華な灯籠や花輪をもたせたり、今日の我々の目にはパレードのようにしか見えないことを行っていたのです。
そういう葬列が貧しくて組めない家庭の場合、寺や火葬場へは夜闇に隠れるようにして向かわねばならなかったのでした。
彼女の遺族は弔問者を拒否して捻出したお金で、院号つきの法名を記した位牌、花輪一対、灯籠一対を用意したのです。貧民のように戸板に乗せるのではなく、遺体を運ぶための輿もちゃんと準備できました。
それでも世間的には「中の下程度」だったにせよ、困窮した樋口家としては最大限に派手で豪華で、士族としての格式を守った葬列を出すことだけはできたそうですよ。
本願寺で質素な仏式のお葬式をあげてもらうと、その後、遺体は荼毘に付されました。
火葬場は明らかになっていません。
一葉の兄の火葬場も同じように記録がないのですが、父・則義の葬儀場は日暮里火葬場だったそうです。
日暮里火葬場は、当時、富裕層向けだった「東京博善株式会社」の経営だったので、記録の有無は士族・樋口家の体面を汚さないかどうかに関係しているのかもしれません。
創作活動の原動力は多額の借金?
さて……文学にすべてを捧げて燃え尽きたかのように語り継がれる一葉の人生ですが、裏があります。
彼女の創作活動を支えたのは、手当たり次第の借金でした。
さらにそれらを踏み倒しまくり、なんとか小説を書く時間を捻出していたのです。
彼女が下谷・竜泉寺町で駄菓子屋商売をしていたころ、近所で評判の占い師・久佐賀義高(くさかよしたか)がいるということで、なんの面識もないのに借金の申しこみに行ったこともありました。
しかも、毎月15円(現在の貨幣価値で約20万円)のお金を、久佐賀から得ることに成功しています。
久佐賀は一葉を目の前に「私の妾になればお金はあげる」と言ったのですが、一葉はそれを拒みます。
すくなくとも彼女の日記にはそう書いてあります。
ちなみに彼女の日記の中で、処女の貞操をカネで買おうとしたとかなんとか、久佐賀はボロクソに貶されているのですが……結果的に、毎月15円を久佐賀から彼女は得つづけたのでした。
しかも彼女は日記によると生涯、処女のままだったそうです。
ほかにも文学の師匠の一人だった半井桃水という男性と恋仲になったとされていますが……これまた面妖なことに、一葉に毎月15円が支払われていたという証言が、半井家の遺族たちからなされています。
樋口一葉の実像を、ホントはめんどくさい腹黒女だったとまとめることは筆者にはできません。
彼女のお葬式には、友人の大半や作家仲間、恩師すら参列することすら、樋口家の判断で許されなかったのです。
理由は「貧しくて十分な返礼ができないから」。
死んだ娘のためより、家の体面にこだわる母親に、一葉が苦労させられたのは間違いありませんね……。
樋口一葉は今、すべての苦労から解き放たれ、築地本願寺の墓の下で眠っています。