パブロ・ピカソ (画家、1881年 - 1973、享年92歳) | |
死因 | 急性肺気水腫 |
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最期の言葉 | 「私のために、私の健康のために飲んでくれ。知ってるだろう、私はもう飲めないんだ」 |
「私のために、私の健康のために飲んでくれ。知ってるだろう、私はもう飲めないんだ」
死の前日、1973年4月7日の夕食時にパブロ・ピカソが客たちに語ったとされる言葉です。
そして、この言葉どおり、それが彼の「最後の晩餐」となってしまいました。
ポール・マッカートニーが『PICASSO’S LAST WORDS(邦題「ピカソの遺言」)』という曲にしているので、知っている方もおられるかもしれません。
ポールマッカートニーの逸話
Oli Gill [CC BY-SA 2.0], ウィキメディア・コモンズ経由で
ピカソが亡くなった1973年のこと。
ミュージシャンのポール・マッカートニーは、かねてより親交のあった俳優のダスティン・ホフマンが出演中の映画『パピヨン』の撮影現場を訪問します。
二人は仲間たちと夕食をともにしましたが、ホフマンは「何でもすぐに曲に出来る」と語っていたマッカートニーの言葉がにわかに信じられず、マッカートニーに「これについて曲を作ってみろ」と、雑誌に載っていた「ピカソの最後の言葉」を指し示しました。
その場で、しかもたちどころにマッカートニーが曲を作る様子にホフマンは興奮していたとか。
この曲は『ピカソの遺言』というタイトルで1973年中に録音され、『バンド・オン・ザ・ラン』というアルバム内の一曲として発売されました。大ヒットを記録したそうです。
付き合う女性に大きく影響を受けた作風
ピカソは8日の昼前の午前11時半、苦しんでいるところを44歳年下の妻に発見され、医師が来る前に亡くなってしまいました。
死因は急性肺気水腫による窒息です。
彼の周りにはクレヨンが散乱しており、92歳を超えてなお、最後の最後まで創作意欲に満ちあふれていたようです。
ちなみに死後、彼の所有する不動産から発見された、未発表作品だけでも約3万9000点もありました。
ピカソを看取ったと主張する独身男性医師もいます。
彼にピカソは「女っていいものだよ」と言いながら死んでいったという説もあります。
結婚したのは二人だけですが、「本気になった女性」だけでも7人とも9人ともいうピカソ。
愛する女性が変わるたびに作風が大きく変わったともいわれるピカソは、女たちを支配するだけでなく、女たちによって変わっていく人生を送りました。
20世紀でもっとも経済的に成功した芸術家
Malost [CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズ経由で
20世紀でもっとも経済的に成功した芸術家の一人であるピカソは億万長者で、3つのお城をフランス内に所有していました。
最期を迎えたのは、ノートル・ダム・ド・ヴィという敷地面積敷14ヘクタールの古城です。
ピカソの相続人は最後の妻ジャクリーヌ・ロックだけでなく、先妻オルガの息子や、別の愛人女性など5人いましたが、その全員が大金持ちになりました。
前妻オルガとは別居していましたが、財産分割を嫌がったピカソはテコでも離婚しなかったのですね。
だから正式な妻の数は二名しかおらず、44歳年下のジャクリーヌ・ロックと再婚を考えたのも、前妻オルガがようやく死んでくれたから、という部分は大きいようです。
しかし、大金が手に入っっても、そのかわりにピカソという存在を失った悲しみはジャクリーヌ・ロックにとって、大きすぎたようです。
ピカソと暮らしていたノートル・ダム・ド・ヴィの城に、彼の死後も住み続けたジャクリーヌ・ロックはピストル自殺を遂げてしまっています。
彼の死後13年経ってからの謎めいた行動でした。