江戸時代の徳川将軍家の人々の大半は土葬でした。
ところが、「ある女性」だけは火葬され、増上寺に葬られたことがわかっています。その女性の名前は、お江(崇源院)。
2011(平成23)年のNHK大河ドラマ『江』のヒロイン(女優:上野樹里)だったことで記憶なさっている方も多いかもしれませんね。
『江』の中で、彼女は「運命の女」として描かれていました。
彼女の三回目(一説には二回目)の再婚相手だったのが徳川秀忠です。
文禄4(1595)年9月に二人が結婚したときには、豊臣秀吉が日本を統治していました。
そして、江戸の徳川家は、征夷大将軍の位をまだ得えられてはいませんでした(家康が徳川家の初代征夷大将軍となるのは、慶長8年/1603年のこと)。
また、江は「関白」秀吉の養女であり、当時17歳の秀忠より6歳も年上の23歳でしたから、秀忠にとっては、かなり威圧感のある妻だったかもしれません。
秀忠は側室を生涯、持ちませんでしたが、そもそも武家の流儀として、正室・御台所の承認がなければ側室をもらうことはできませんからね。
ところが、「大坂の陣」(慶長19―20年/1614年―1615年)で、豊臣家は滅亡。
淀殿(茶々)/奈良県立美術館収蔵『傳 淀殿畫像』(wikimedia commonsより)
この戦いで江は故・豊臣秀吉の側室(というより二番目の正室扱い)だった、長姉・淀殿を失いました。
しかし、豊臣家の養女という肩書きに意味がなくなっても、江の徳川家での地位は安泰でした。
すでに1604(慶長9)年に、後に三代将軍・家光となる男子や、ほかにも多くの子どもに恵まれていましたからね。
ちなみに徳川将軍家の歴代御台所の中で唯一、自身で産んだ男子を次の将軍の座に据えることができたのは、江だけ。
まさに「運命の女」……人並み以上に苦難を味わうことも多い一方、それを必ず乗り越えることができるという実に強運な女性でありました。
京都出張中の秀忠に危篤の知らせ
崇源院像(wikimedia commonsより)
そんなお江が危篤に陥ったのは寛永3(1626)年9月11日のこと。
その当時、彼女の夫である秀忠、そして息子の家光は二人そろって京都に「出張中」で、二条城に滞在していました。
家光は驚き、使者を向かわせるのですが、間に合わず。
9月15日、お江は江戸城で54歳の若さで亡くなりました。
秀忠と家光が京都を発つことができるのは10月初旬にもなる見込みで、彼らの江戸到着前にお江の遺体は、荼毘に付されることになりました。
その葬儀の様子がいわゆる『徳川実記』にはあるのですが、あまりの豪勢さにビックリさせられてしまうのです。
増上寺から荼毘所まで、1000間(一間は1.8メートル)もの間に筵が敷かれ、その上に貴重品だった白布が敷かれることにはじまり、火葬にあたっては大量の人員が動員されました。
江の遺体は、野外で葦と木炭を燃料に使って火葬になりました。
当時は野原にすぎませんでしたが、現代でいえば、六本木・東京ミッドタウンの敷地です。
長期間、安置されていた遺体の「におい消し」としてでしょうか。
臭い消しに高級香木?徳川幕府の恐るべき財力
お棺をまるでグルッと覆うように、当時最高級の香木だった「沈香」が、32間以上(しつこいですが、一間は1.8メートルです)にわたって敷き詰められ、そこに火が放たれたのでした。
その香煙はなんと1キロ以上にわたって、たなびいたことが分かっています。
創生期の徳川幕府の財力、そして最高級の香木をいわば燃料のように使って遺体を荼毘に付してしまおうとするなど、すべてが桁外れ。誰も考えないほどの豪華な火葬なのでした。
そもそもこのコラムで何回も触れたように火葬に必要な薪代を払うのだけでも庶民には大変だったのだ、というお話しを思い出して下さい。
徳川秀忠・家光父子にとって、お江という女性がいかに重要な、大切な存在であり、また人々の尊敬を集めていたことがわかると思います。
こうして大量の香木と共に荼毘に付された江のお骨は、最初から土葬された他の将軍や御台所たちと同じように木棺に収められ、さらにお棺ケースに相当する石槨で覆われ、宝塔の下に土葬されていたのでした。
第二次世界大戦後、江の遺骨調査も行われましたが、調査を担当した東大の鈴木尚教授によると、彼女は非常に華奢な骨格だったことがうかがえたそうです(火葬後の骨なので、多少の変形を加味しても)
余談ですが現在、増上寺内で徳川将軍家墓所として公開されているスペースでは、秀忠と江は同じ宝塔の下に眠っています。
が、これも第二次世界大戦中の空襲で秀忠の霊廟が燃えてしまったせいなのですね。
もともとは同じ増上寺の敷地内とはいえ、別々に眠っていた二人は、ひょんなことからまた「同居」することになったのでした。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
ちなみに秀忠の「秀」は、豊臣秀吉の「秀」です。
とくに寵愛している目下の者にその証として、自分の名前の一文字を与える行為を偏諱(へんい)と呼びます。