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コラム 死と生の文化史<パンデミック編> presented by 雅倶楽部 2021年2月1日掲載

生還率6%?!あの感染症が原因でナポレオン軍大敗北

1812年1月。ナポレオン・ボナパルトは約70万人の大軍勢を引き連れてロシアに攻勢を仕掛けました。しかしながら、最終的に生き残った兵士はたったの4万人…と、まさかの大敗北。戦地ではいったい何が起きていたのでしょうか。本稿では、ナポレオンの没落を決定づけたロシア戦役とその原因について詳しく触れていきます。

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「フランス皇帝」ナポレオン・ボナパルトの没落を決定づけたのは、1812年のロシア戦役の大敗でした。

1月の出発時はフランスだけでなく、オーストリア・ドイツなど多国籍の兵士45万人、その他スタッフが25万人、合計70万人の大部隊だったのに、最終的に帰国できたのは当初、数千人だけ。後に逃走兵などが戻ってきたのを合わせても4万人には満たないといわれます。

19世紀初頭にヨーロッパの軍隊に入隊した場合、3分の1程度の兵しか生きて戻ることは出来なかったといわれる中、それをはるかに下回る生還率という最悪の敗北でした。

ナポレオン(軍)大敗北の本当の理由

「ナポレオンはロシアの冬将軍に負けた」などと言いますが、それは間違いです。ナポレオン軍敗北の徹底的な原因となったのが、ロシアの恐るべき寒さだったというだけですからね……。

2001年、現・リトアニアの首都ヴィルニュス(ヴィルナ)の再開発現場で、大量の白骨が発見されています。ナポレオン時代の制服をまとった遺骨が多く見つかり、これは1812年のロシア戦役の死者であると断定されたのです。

ナポレオン軍の兵士や馬の遺体がそこら中に散らばっていたので、それらを集団埋葬してやったというロシア軍の古い記録が本当だったとも証明されました。

遺骨検査の結果、ナポレオン軍の死者たちは、恐ろしい伝染病であるチフスや赤痢をはじめとする感染症によって亡くなった痕跡が見つかったのです。病を伝搬したと思われる、大量のシラミの死骸も発見されました。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

感染症…シラミが媒介する、塹壕(ざんごう)熱病原体のDNAも発見されました。

実際、ナポレオン軍がロシアで見たのは、フランスなど西ヨーロッパの常識では考えられないほど貧しく、不衛生で地獄のような生活を強いられていうるシラミだらけのロシア農奴の姿でした。

そんな環境に入ってしまったのですから、当地に蔓延していた病がナポレオン軍の兵士たちに襲いかかり、大量に命を奪っていくのは時間の問題だったのです。

ロシア側が、各種伝染病で命を落としたナポレオン軍の兵士や馬を埋葬してやったのは慈悲だったかもしれません。あるいはそんな不衛生なものを放置しておけば、やがて疫病はさらなる猛威を振るうだろう……との合理的判断だったかもしれません。いずれにせよ、命がけの行為だったでしょうが……。

戦争がパンデミックの引き金に?!

やはりロシア兵士たちの間にも、ナポレオン軍がやってきて、さらに病気まみれになって死んでいったがゆえに同じような病が蔓延していたそうなのですが、ナポレオン軍に比べると死者数は増えませんでした。ロシアに暮らす人々には、ある程度の“免疫”があったと考えてよいのでしょうか。

確実なのは、ロシアから見て「ヨソモノ」であるナポレオン軍にその手の“免疫”はなく、あるいはほとんど免疫が機能しなかったがゆえに、バタバタと病んで倒れていってしまったのですね。

現代ほど、人の行き来がなかった時代において、戦争は見知らぬ病原体との遭遇はパンデミック、そして大量死の危険性を意味していました。

第二次世界大戦の場合でもそうだったのですが、戦争における大量死の大半は実は戦死などではなく、病死のほうなのはむしろ普通だったのです。
ロシア帝国の一大軍事拠点であるモスクワ近辺に到着した9月頃にはナポレオン軍の兵士の数は、なんと出発時の4分の1にまで減っていました。主たる死因はチフスです。

暖をとるべく集団でかたまって睡眠する一般兵士たちの寝具に巣食っていたシラミが感染源だったと推定されるのですが、上級兵である将校たちはより恵まれた生活環境が与えられ、基本的に一人で寝起きできるため、チフスなどに感染する者は少数でした。

致命的な判断ミス

しかし、そんな将校たちにも戦争の疲れは明らかに蓄積していました。モスクワを目前にしながら、即時撤退論が幹部将校の間で主流となったのは当然です。

しかし、ナポレオンだけは戦場でもさらなる特別待遇の中で生活できていたので、この期に及んでもまだまだ元気でした。

諸将から口々に撤退の進言を受けたナポレオンは、さすがに悩みます。そして「風呂の中で考える」といって姿を消しました。しかし風呂で血行がよくなってテンションがあがったからか、ナポレオンは判断を誤ってしまいました。

「このまま我々はモスクワに突撃する!」

風呂上がりの一糸まとわぬ姿でナポレオンはそう宣言し、将校たちをがっかりさせたものです。一般兵にとってはがっかりどころか絶望だったでしょう。

この判断ミスが命取になりました。

10月には冬が始まるロシアの気候をムシしたナポレオン軍の進退はいかんともしがたくなり、結局、大量の死者を出しながらの地獄の撤退劇が始まるのです。フランス軍にはもはや埋葬を行う残力がないため、散乱する人や馬の死体を、ロシアの人々が埋めて回りました。

逃走するナポレオン軍は、もはや理性をうしない、味方の街で略奪行為を繰り返し、経路の街々にチフスをはじめとする病気をばらまき続けて進んでいくのでした。まさに死の行軍です。

今日の感覚では考えられないのですが、ここまでの戦略ミス、人命軽視の大罪を犯しながらも、ナポレオンはこの時、失脚していません。

翌1813年、ナポレオンはまたもや20万人からなる大軍勢を率いて、ロシア軍など敵対するヨーロッパの諸国軍を迎え撃つのですが、ここでも大敗し、彼の帝国はようやく崩壊することとなりました。

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