本連載について
人間として生きる上で逃れられない「苦しみ」……それを仏教では「生老病死」と説きます。この世に「生」まれ、年「老」い、「病」み、「死」んでゆく人の一生の流れそのものが、「苦」であるという認識ですね。
逆にいえば、人生につきものなのが、「生老病死」ということでもあります。
この原稿を書いている2020年3月初旬、日本はいわゆる新型肺炎という疫病の話題でもちきりです。この混乱の時期だからこそ、生きている上で逃れようもない「病」、そして「死」というファクターについて、日本、そして世界の歴史から学んでみたいと思います。
新型コロナウィルスの感染力の強さについては現在、諸説が紛糾しあっている状態です。
いわゆる「専門家」の間でも「インフルエンザよりも少し強め」程度という説もあれば、「いやいや、そんなに弱いわけがない」という説も出て、もはや何が正しいのかよくわからない状態になっています。
現時点で新型コロナウィルスによる感染症の致死率は3.8%(3月1日のWHO調査報告書)。当初は2%程度といわれていたのに、ジワジワと上昇傾向にあるのが非常に不気味です。
ちなみに現代におけるインフルエンザでの致死率は0.1%。
20世紀初頭に全世界で大流行した(おそらく今日以上に悪性が高かったといわれる)インフルエンザでも致死率は「2.5%以上」程度の数字にとどまるという統計結果があります。新型コロナウィルスの被害については、本当に深刻であるといわざるをえません。
しかし、病をもたらすウィルスという知識や概念すらなかったはるか古代、疫病の大発生はその都度、現代日本に起きている新型コロナパニックをはるかに上回るカオスに社会全体を叩き落とすものでした。
とくに人類の歴史の中で恐れられた感染症が「天然痘」です。
ミイラが語る「天然痘」の跡(あと)
天然痘と人類の闘いの起源は非常に古く、もっとも古い天然痘流行の記録は、紀元前12世紀の古代エジプトにさかのぼると言われます。
この当時のミイラに、天然痘特有の膿をもった水ぶくれ(=膿胞)が見つかっているからです。
この膿胞の中身ひとつでも、非常に強い感染力のウィルスを周囲にばらまく力があったとされ、天然痘の流行は大量死を意味しました。
致死率は新型コロナウィルスによる感染症の約10倍、つまり20-30%ほどにものぼり、回復後も膿胞の跡が皮膚にのこり、えぐられたような凹み方になるケースが多く、心身ともに傷跡をのこす恐ろしい病だったのです。
「疫病」ではなく「瘡」と具体的に表記されたのはナゼ?!
日本史に見られる最初の天然痘……正確には天然痘と目される病、当時の言葉でいう「瘡」の流行記録は『日本書紀』にあり、それは552年のことでした。
それ以前にも『日本書紀』『古事記』には疫病の大流行についての記述はあります。ただし、その大半については「疫病」とだけ記され、症状などもなく、具体的な病名がわからないのです。
しかし、「瘡」と表記された天然痘だけは様子が違いました。『日本書紀』の記述をかいつまんでいうと「身を焼かれ、打ち砕かれる」といって大勢の人が苦しんで死んでいったことなどが記してあるのです。
552年以前に、日本で天然痘の流行があったかどうかは記録がないのでわかりません。ただ、552年より少し前から、中国大陸から多くの仏教関係者がおとずれ、彼らの誰かの体内に天然痘のウィルスが潜伏していたのが広がってしまった……と考えるほうがよさそうです。
日本を救うために大陸からわざわざ輸入した仏教に、大量死をもたらす天然痘のウィルスという「おまけ」がついていたのは、皮肉としか言いようがありません。
疫病があぶり出した政治的病巣
ちなみにこの時、仏教を重んじたのが蘇我氏。中国から輸入した仏教など要らない、日本には古来から神道があると主張したのが物部氏です。
ときの帝は欽明天皇で、彼は当初、アート作品としての仏像に強く惹かれていましたが、疫病の流行などを理由に物部氏から「仏像、経典などは投げ捨ててしまえ」と”忠告”され、それに従ってしまいます(『日本書紀』)
また、寺院を燃やすなどの行為を天皇が容認したこともあったといいます。
だからこそ、仏様が怒って日本中に「身を焼かれ、打ち砕かれる」天然痘のような疫病をさらに流行させたのだ……、当時の日本人たちの一部はそう考えました。当初、仏教は人々を救うどころか、社会の分断を生んでいたのです。
当時の人々にとっては原因不明、しかも見たこともないほど重い症状の末にバタバタと人が死んでいく天然痘という病の流行に、社会がパニックに陥りました。
現代日本でも新型コロナウィルスの流行に社会全体がパニックになっているのは、「具体的な治療法などはありません」という理由が大きいでしょう。いにしえの日本ではすべての疫病に根本的な治療法などはありません。それこそ、神か仏に祈りを捧げるほかはなかったのです。
結局、天然痘のウィルスは日本全国で流行し、日本の地に根付いてしまいます。
また、蘇我氏と物部氏の対立も解消せず、こうして起きたのが587年の「丁未(ていび)の乱」と呼ばれる内乱でした。
勝者であり、当時では数少ない熱心な仏教徒だった蘇我氏らによって、日本に仏教文化は(皮肉にも天然痘と同時期に)根付いていくことになります。
疫病流行の責任が、いわゆる政治家に押し付けられ、政治家同士が争い合うのは今も昔も変わらないことがわかりますね。
しかし、それで戦争までもが起きていたのは恐ろしいというほかありません。疫病は、その正体が不明であればあるほど、人を盲目にしてしまうのだと思い知らされます。
次回は、新型コロナウィルスの流行でも話題になった感染経路特定の難しさについて、江戸時代末期に日本中で流行した天然痘のケースを使ってお話してみたいと思います。
取り上げるのは、感染経路特定の困難さから、毒殺されたのではと現代にいたるまで語り継がれた孝明天皇(明治天皇の父帝)のエピソードです。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
552年…
ほかに585年にも流行は見られ、ときの帝・敏達天皇(びだつてんのう)が仏教の布教を大幅に認めた直後のタイミングだったので「神罰」といわれた。
なお、何をもって最初の流行とするかに諸説あると書いたのは、当時使われた「瘡」の単語だけでは悪性の麻疹か、天然痘かの判断がつかないとする学者もいるため。