1901年1月22日、64年という長い治世を誇った大英帝国のヴィクトリア女王がついに崩御しました。
死因は脳出血だとされています。
もともとポッチャリ気味でしたが、医師の勧めに従わず、カロリーの高いものが大好きなままだったので、晩年はかなり肥え太って動くのも大変そうでした。
19世紀 世界の覇者
即位してから約64年の女王の治世の中で、女王の体重が増えるのと比例するように、イギリスの領土はそれ以前の10倍にもなりました。
具体的には地球の全陸地面積の4分の1、当時の世界全人口の4分の1(=4億人)という恐るべき規模に達し、歴史上最大規模の大帝国となっていたのです。
また、当時の大英帝国の政治的影響力は、現在の世界有数規模の大国・アメリカの何倍、何十倍もありました。
イギリスの領土が急速に、それも10倍もの広さに拡大出来たのは、アフリカやインド、そしてアジアの国々を植民地として併合していったからです。
ヴィクトリア女王も、正確には大英帝国ならび英領インド帝国皇帝でした。
彼女こそ「19世紀の世界の覇者」だったといえるでしょう。
喪に服しつつも公務は精力的に
女王は自分が亡くなる約50年前に夫・アルバート公をある意味、過労死させるような形で亡くしました。
もとから自分が太っているので冬でも暑く感じるため、夫が暖房を付けてほしいといっても「私が女王よ!」などと言ってハネつけたりしていた鬼嫁です。
エドワード7世 / King Edward VII of the United Kingdom (1841-1910) in 1902.
それなのに素行不良のつづく皇太子(のちの英国王エドワード7世)の起こした女優との不倫問題の処理をしにいくといいだしてきかない体調不良の夫を、ヴィクトリアは止めることが出来ませんでした。
1861年12月14日、無理のたたったアルバートはこのとき倒れ、亡くなったのでした。死因は腸チフスでした。
夫の死以来、女王は悲しみのあまり、ほとんど公式の場に出ようとせず、喪服で暮らしていました。
ただし喪服を着ていても、公務は精力的に続けていました。
近代以降、イギリスの君主は「君臨すれども統治せず」の伝統にのっとって暮らしていたなどといわれがちですが、ヴィクトリアは女王として政治を主導することを好み、気に入らない政治家を失脚させるための工作をするなど、けっこうなことも行った記録があります。
喪服を着ていても、自分の馬丁として勤めていた男と身分を超えた恋仲になってしまったりもしましたが、さすがに再婚はしませんでした。
しかし晩年の何年かは、高齢のうえに高カロリーな食生活、運動不足がたたって体調が崩れる一方で、政治に介入するどころか文句を日記に書くのがやっとという有様でした。
そして、20世紀の幕開けからわずか20日あまり後、女王は崩御したのです。
英国国教会に無痛分娩を認めさせる
彼女は4男5女の9子を産み、娘たちをドイツを中心にヨーロッパ各地の王室に嫁がせました。
余談ですが、子沢山だからといって女王のお産が軽かったわけではなく、毎回苦労しました。
1853年に四男のレオポルド王子を出産する時からそれ以降は、無痛分娩の先駆けとなるクロロホルムによる無痛分娩を選択しました。
当時、キリスト教では無痛分娩は認められていなかったのですが、他ならぬ女王の強い希望で英国国教会は無痛分娩を公式に認めることになり、イギリスでは全世界に先駆けて無痛分娩が広がっていきました。
無痛分娩は、ヴィクトリアの出産意欲をますます高め、結果的に彼女は4男5女の9子を産み、娘たちをドイツを中心にヨーロッパ各地の王室に嫁がせました。
40人の孫、さらに37人もの曾孫が生まれました。
彼らに囲まれるようにして、「ヨーロッパの祖母」とも呼ばれたヴィクトリア女王は亡くなったのです。
後編は「葬儀場はあのロイヤルウェディングの会場?!19世紀世界の覇者「ヴィクトリア女王」【後編】」からお読みいただけます。 (公開準備中)
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
馬の世話をする係の者。主人が乗馬する際、馬を誘導することもある。
余談だが、英国王室と馬の関わりは深い。現在でも多くの馬を所有するだけでなく、競馬場まで持っている。上流階級の社交場として有名なアスコット競馬場も、英王室の所有施設である。