幕末の長州藩(現在の山口県)に生まれた吉田松陰の人生は、天才少年として華々しくはじまりました。
数え年にしてなんと9歳で藩校・明倫館の教授見習いになり、11歳のときには22歳の若き藩主・毛利敬親(=ただちか、正確には当時、慶親=よしちか)に兵法の講義を行うなど、その才能には目覚ましいものがありました。
しかし……彼は学問の知識を、現実を変えるツールとして用いようとしはじめました。
松蔭が生まれたのは天保元(1830)年です。日本全国で天候異変が続いていましたし、開国・通商をもとめる欧米諸国の船の姿が日本近海で目撃されはじめ、人々は将来の不安を強く感じていた時期です。
松陰は日本を救うため、今、何が自分たちにできるかを考え、彼を慕う松下村塾の弟子たちとともに、アイデアを実行に移し続けます。
それは当時、非常に危うい行為でした。
不平等条約に憤慨!「草莽崛起(そうもうくっき)」を提唱
安政五(1858)年、朝廷の許可もないまま、幕府はアメリカとの日米通商航海条約を、それも日本に不利な内容で取り結んでしまいます。
外国に日本侵略を許す足がかりだと危惧されていたため、弟子に「外国人を斬ってでも結ばせるわけにはいかない」と松陰が常日頃から言っていた条約です。
結果、松陰は老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画をくわだてはじめるのでした。
「草莽崛起(そうもうくっき)」という言葉を松陰がよく使い始めたのもこの頃からです。
在野の、身分の低い者でも志をもって、日本のために立ち上がらねばならない……という激しい決意のあらわれですが、長州藩に老中暗殺のための武器の提供を申し出たことで計画は露見、松陰は逮捕されてしまいます。
松陰は自分を犯罪者にしてでも、長州藩や、幕府に「これでいいのか」というゆさぶりをかけようとしたわけです。
詮議の場で、松陰は現在の幕府の開国路線は非常に危険だと持論を訴えるつもりでした。
しかし、松陰の訴えにまともに耳を貸す役人たちはいませんでした。
江戸に搬送され、伝馬町牢屋敷に入っていた松陰ですが、安政五(1858)年10月27日早朝、老中暗殺計画の罪により処刑宣告を受け、朝10時に早くも斬首されてしまいました。
わずか30歳の若さでの死です。
松蔭の遺志は弟子たちへ…
死の前日に完成したのが有名な「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽(くち)ぬとも 留(とどめ)置かまし 大和魂」の辞世の歌を含む、政治的遺書『留魂録』です。
辞世の歌ですが、私の身がたとえ武蔵(=関東)の辺境に朽ち果てても、日本人としての私の魂は朽ちずに残したい……という内容です。
余談ですが「大和魂」が「日本人の魂」という意味になったのは江戸時代の本居宣長の解釈がはじめで、平安時代では「外国から得た知識をうまく応用して活かす日本人特有の能力」的な意味で用いられていました。
松陰は無念を、故郷の家族に伝えようとしたのでしょうか。
刑死の時刻、長州の松陰の実家で、仏壇の灯明がフッとかき消えるなど、不吉な現象が見られたそうですよ。
結局、松陰の捨て身の訴えは幕府になんの影響も与えなかったように見えました。
しかし、その後、松陰の教えは松下村塾の弟子に受け継がれ、彼らの激しい政治活動は続くのです。
本当は切り売りされる運命だった松蔭の遺体
さて……刑死した松陰の葬儀はどうなったのでしょうか。
当時、刑死者の遺体を遺族や関係者に引き渡すことはおろか、埋葬すら禁止されていました。
それでもどうにかして松陰の遺体を取り戻したいと願う飯田正伯、尾寺新之丞という二人の弟子たちは、役人に直談判することにします。
彼らの熱意に打たれた役人は、三日目にして、ようやく松陰の遺体の引き渡しに同意します。
松陰の遺体が送られたのは、南千住の寺院・回向院でした。
小塚原の刑場の隣にあった寺院で、ここで処刑された人々の供養をしていました。
しかし、遺体のあつかいは基本的にぞんざいで、傍目にはひどい有様だったそうです。
先述の飯田正伯、尾寺新之丞だけでなく、木戸孝允、伊藤博文(※いずれも後の名で記述)の合計四名が回向院に合流しますが、彼らが回向院で見たのは、大きな桶に無造作に投げ込まれている松陰の遺体でした。
斬首された顔にはまだ生気がありましたが、髪は乱れ、そこらに血がこびりつき、凄惨な様子だったといいます。しかも胴体は素裸にされていました。
おぞましいと感じるかもしれませんが、江戸時代、刑死者の遺骸は刑場の役人たちの小遣い稼ぎの道具でした。
遺体の一部も利益目的で「腑分け」されていました。
人間の内蔵は良く効く薬の原料になると信じられていましたし、吉原の遊女たちは、自分の本気を男に証明する手段として、自分の指のかわりに刑死人の指を買い求め、それを送りつけるなどということをしていました。
松陰の刑死体が裸なのは、布がきわめて高価だった当時、古着屋に売れば何らかの金になるとふんで脱がされてしまったのでしょう。
いずれも現代の感覚では悪趣味以外の何者でもありませんが、当時では(罪人の)死体は資源というのが常識だったのです。
さて、弟子たちは松陰の遺体を収めるための巨大な瓶(かめ)を用意して来ていました。
それだけでなく、松陰の首と胴体をつなぎあわせて運ぼうとしたのですが、役人の判断で、それはできませんでした。
四人の弟子たちは血まみれの松陰の遺体を洗って清め、自分の着物を少しずつ脱いであたえました。
そして遺体を瓶に入れ、埋めることしかできなかったのです。
当初、松陰の墓は回向院内で、同時期に刑死した橋本左内の墓の横に葬られていました。
回向院内にはいわゆる「安政の大獄」で処刑された政治犯の人々の遺体が葬られていました。
しかし、回向院は基本的には強盗殺人など重犯罪の刑死者たちが葬られる墓地だったので、松陰の門弟たちは改葬を希望しつづけました。
松陰の死から三年後、ようやく恩赦が与えられ、松陰の遺体は長州藩主・毛利家の私有地だった若林のお抱え地に改葬することができたようです。
それが現在の世田谷の松陰神社です。