儒学の祖とされる孔子。約2500年ほど前の古代中国に生まれた人物でありながらも我が国の文化、政治に大きな影響をあたえつづけている偉人です。
しかし彼の本業はいわば「冠婚葬祭アドバイザー」だったということはあまり知られてはいないのですね。
孔子の生前の儒学者とは、そもそもその手のお仕事がメインだったともいわれています。
政治家じゃなかったの?と思う方もおられるでしょうが、立派なエピソードほど、孔子の場合「フェイク」なのです。
孔子が神格化された「大人の事情」とは?
要するに孔子本人より、彼の弟子筋に立派な人物が続出したので、孔子自身も立派でいてもらわねばという「大人の事情」で逸話が盛られてしまったのが本当のところなのです。
たとえば「孔子は魯国の中都という街の宰相」ともいわれていますが、近年の実証研究によると「魯国に中都という町は存在すらしていなかった」し、「孔子は、生涯を通じてまともな官職に就かなかった可能性が高い(浅野裕一『孔子神話 宗教としての儒教の形成』)」そうな。
あったとしても、孔子が最初に官職を得たといえるのは、政治家とかそういうのではなく、魯国の宮廷関係者向けに冠婚葬祭や儀礼を教えるアドバイザーとして雇用された可能性があるかも……程度なのですが、それがなんと50歳の時だそうです。
初就職が50歳……!
50歳までニートだった可能性も払拭できないのですが、冠婚葬祭に携わる巫女を母親を持っていた(という説のある)孔子は、自身も30代くらいから、複雑な冠婚葬祭や先祖崇拝の儀礼にかかわる講師活動を始めていたそうですよ。
しかし、孔子は経済的に恵まれた家庭には生まれておらず、正式な高等教育を受けられたわけでもありません。
「下問を恥じず」…背景を知ると不安になる名言
AlexHe34 [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], ウィキメディア・コモンズより
『論語』にもあるように、若い頃はどんな仕事でも生きていくためにせざるをえなかったそうです。
ですから上流階級の葬儀では、それ以外の人々の葬儀とは勝手が違う部分も多かったのでしょう。
知識が足りず、目下の役人に質問をしたりしています。
『論語』にも「下問を恥じず」という一節が出てきます。
「分からないことがあれば、恥ずかしがらず、立場が下の者にも堂々と質問すべきだ」という意味ですが……当然のように、その職も長くは続けられませんでしたし、その後、孔子を雇おうとする諸侯(領主)は中国中にいませんでした。
「背景」を知ってしまうと、ありがたみが薄れるというか、孔子ってほんとに大丈夫だったのかと不安になる「名言」です。
この『論語』も、「子曰く(=先生がおっしゃるに)」と始まる章が多いように弟子筋がまとめた書物で、孔子の著作ではありませんしね。
そもそも実際は弟子ですらなく、孔子の弟子の弟子あたりの世代がまとめたといわれています(つまり『論語』の成立時期は正確には不明)。
こうして見ていくと「孔子はダメ人間」と思う人もいるかもしれませんが、そういうわけでもありません。
弟子「顔淵」の死で示した葬儀への哲学
葬儀や死についての彼の考え方には非常に深い示唆が溢れているように筆者には思われるのです。
孔子は73歳という驚異的な長寿で、長生きしている間に弟子が亡くなることはしばしばありました。
息子のようにかわいがっていた顔淵という弟子が死んだ時、「立派な葬式」を出したがった弟子たちに、「ダメだ」と孔子は伝えます。
しかし弟子たちは師匠の意図を見抜くことができず、豪華な葬式を挙げてしまいます。
しかしどこか形式ばかりが重んじられ、顔淵を哀悼するという心がこもっていなかったようなのです。
孔子が心から顔淵の死を悲しみ、声をあげて泣いたのを見て、皆がびっくりしてしまったのでした。
つまり顔淵の死を本心から悲しんでいたのは孔子だけだったということです。
弟子たちに「豪華さだけを不自然に求めすぎたお葬式には、心が欠けがち」ということを孔子は伝えようとしていたように筆者には思われます。
ところが、孔子自身が亡くなった時の記録は、というとそれがまったく残されていないのです。冠婚葬祭アドバイザーとその弟子たちだったはずなのに……。
孔子が、自分の理想とする葬儀について語ったことが、少しだけ記録されています。
孔子の病気が重くなると、生涯の大半を不遇で過ごした孔子の葬式を、まるで貴族の葬式をするように行おうとしていた弟子を孔子は強い言葉で戒めました。
出典:『論語』/子罕第九ー12由之行詐也
無臣而爲有臣
言葉を補うと、「あなたは詐欺をしようとしているのですか。実際の私には家臣などいないのに葬式だけ家臣がいる立派な人のようにするとは」というような意味になります。
出典:『論語』/子罕第九ー12無寧死於二三子之手乎
「2、3人の弟子がいてくれればよいから、あなたたちに弔われたい」とも言っていますね。
せめて葬式だけでも、立派に……という弟子の配慮を辞退し、身分ある者のようにしてではなく、自分らしく、あくまで一般人として、門人たちの近くで死にたいと発言したという記録が残されているのです。
これが葬儀アドバイザーだった孔子の希望する、自分のお葬式でした。
「天下無道久し」…死の間際に知った出自
死期を悟った孔子が本当に亡くなる一週間ほど前、たいへんな事実が発覚しました。
孔子は、古代中国の周王朝を理想化し、すべての儀礼は周王朝のようにとりおこなうべきだと主張していました。
周は殷王朝を攻め滅ぼした「逆臣」ですが、殷がおこなった「力による政治」ではなく、「徳による政治」を始めたと孔子は考えていたからです。
しかし、孔子は自分が周王朝に滅ぼされた殷王朝の末裔であることを、死を目前で知ってしまったのですね。
運命の皮肉としか言いようがありません。
号泣する孔子は、愛弟子の子貢に「天下無道久し(天下に道徳は失われてひさしい)」といったとか(司馬遷『史記』から「孔子世家」)。
理想化して崇めてきた周王朝が、本当は自分の先祖の敵(かたき)だったことに絶望し、自分のやってきたことは何だったのかという思いに駆られるのは道理というものです。
おそらく、その衝撃が孔子の死を本当に早めてしまったのかもしれませんね。
こうして孔子が弟子たちに見守られて亡くなると、魯の都・曲阜の北にあった泗水(しすい)という河のほとりに葬られ、弟子たちは孔子の墓の側で三年間、喪に服しました。
しかし子貢だけはさらに三年、合計六年も孔子の墓守をしていたそうです。
作為的と感じる現代人も多いでしょうが、真心をもって師匠の死に向かい合った子貢は後に大成し、政治家としても投資家としても成功を収めたのでした。
霊廟「孔林」 / 作者 Rolf Müller (User:Rolfmueller) [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html)], ウィキメディア・コモンズより
現代の中国、山東省・曲阜(きょくふ)には、孔子の死の翌年から、彼の旧宅を霊廟に改築させたことがはじまりという、世界でもっとも古い歴史をもつ一族墓「孔林」があります。
観光地化していますが、孔子とその一族の専用墓所で、歴代王朝の皇帝たちの支援を受けて拡張されていった広大な敷地を誇ります。
その中には墳墓として孔子本人の墓もあるのですが、それと文献にある「泗水のほとり」の孔子の墓が同じかどうか……無粋な言及をするのはやめておきましょう。
なお、文化大革命の時に孔子の墓は、紅衛兵らの手によってあばかれてしまっているのですが、塚の中からは何も出てこなかったそうです。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
紅衛兵…1966年5月、毛沢東支配下の中国共産党が編成させた、革命的な学生や青年たちのグループ。文化大革命を過激に先導、既存の権威を粛清してまわった。