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コラム 堀江宏樹の葬儀文化史 presented by 雅倶楽部 2025年1月10日掲載

【VIP貴族/公卿(くぎょう)の葬儀】「遺骨」という概念はどのようにして生まれたのか?

上位貴族である「公卿」は、シンプルな葬儀にこだわり、自身が死んだあとは散灰・散骨をすることで魂の極楽往生を目指していたとか…本稿では、超VIP貴族の葬儀とあわせて、日本史上初のケースとなった「遺骨」について触れたいと思います。

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前回(『【平安時代の葬儀】陰陽師による「蘇生の儀式(3日間)」を必要としたホントの理由』)は、平安時代の主に中級貴族の葬儀についてお話しました。しかし、上級貴族の葬儀といえども、大筋のところはあまり中級貴族と変わりはなかったようです。

驚くかもしれませんが、かつて天皇の女御だった女性のようなステイタスの高い人物を葬る時でさえ、ご遺体を荼毘に付した後(=火葬した後)、その場で散骨して終了というようなことがあり得たようですよ。

上位貴族ほどシンプルな葬儀を好んでいた?!

藤原道長とも交流が深く、学問に秀でていたことで世に知られる藤原公任の妹・遵子は、円融天皇の後宮に入内し、中宮(正室)という高い地位にありましたが、天皇の譲位後は、実家に戻り、兄・公任と同居していました。

しかし、寛仁元年(1017年)6月、遵子は亡くなりました。
妹に先立たれてしまった公任は、彼女のご遺体を火葬にした後、散骨することを考えている旨を、有職故実(=ゆうそくこじつ、上流階級の生活マナー)に詳しい親戚の藤原実資に相談しました。

実資は、彼らが属する藤原北家の中でもとくに高い社会的地位に登った男女が葬られる木幡の墓地(現在の京都・宇治市)を、散骨の地として勧めました(藤原実資『小右記』寛仁2年=1018年、「六月十六日条」)。

ここからわれわれがうかがい知ることができるのは、かなり高い身分の貴族が亡くなった場合でも、鳥辺野、化野、蓮台野といった平安京の「定番」葬儀場所のどこかで火葬され、その場で散骨されるか、土中に埋めて終了…一族ゆかりの墓所などがあれば、そこで散骨、もしくは骨壺に収められた後に土中に埋められ、それで葬儀のすべてが終了したと考えられていたようなのですね。

貴族たちはかなりシンプルなお葬式を好んでいたということです。

「遺骨」として骨を残したはじめてのケース

もちろん、故人の遺言があった場合、遺灰や遺骨が故人とゆかりの深い寺院などで保管されることもありました。こうしたケースの最初の例とされるのが、延喜21年(921年)5月に亡くなった源当時(みなもとのまさとき)の葬儀です。

『類聚雑例』(『群書類従』巻第五百十五)の記述によると、

「去る延喜廿一年(略)故中納言源当時卿、去る五月四日に薨ず。六日に葬る。七日、骸骨を粉に成して、一器に入れる。東山に住む僧、蓮舟法師の私寺屋に安置す」
(※オリジナルの漢文に筆者がひらがなを補ったもの)

とあります。

平安時代、「貴族」と呼ばれたのは「従五位の下」以上の官位を持つ者だけで、朝廷に仕える多くの役人の中でも500名程度でした。

その中でも中納言という高い地位にあった源当時のような最上級の貴族のことを「公卿(くぎょう)」と呼びましたが、彼らは貴族社会全体で20名程度しかいなかったのですね。現代の政治家でいうと閣僚クラスのVIPに相当しますが、それでもこの程度のシンプルな葬儀しか行わなかったのです。

源当時は延喜21年5月4日に亡くなり、その2日後に火葬が行われ、丸1日かけて骨になると、さらに砕かれて器に入れられるという、今日の目にはややザツな扱いを受けていると思える部分は興味深いですね。やはり、当時の日本では「遺骨にも魂が宿る」という発想がまだ存在しなかったことがうかがえます。

また、源当時の骨壺が蓮舟法師という僧の「私寺屋」にわざわざ安置されたという記述も興味深いのです。
なぜ何十年、何百年後にも存続しているであろう大寺院ではなく、「私寺屋」――つまり、一介の僧の家などで保管されたのかという問題ですね。
蓮舟法師の家がその後、どうなってしまったのかという疑問に答えてくれる史書は存在しません。時の流れの中で、遺骨ともども、はかなくも散り散りになってしまったのでしょう。まさに「無常」ですね。しかし、それこそが源当時の本当の願いだったのかもしれません。

遺灰や遺骨などは早々にこの世から消え去るほうが、魂の極楽往生につながると彼らは考えていたようです。しかし、残された者が故人に会いたいと願う気持ちも人情として理解できます。
源当時が遺骨を保存させたのは、遺族のために死んだ自分に、この世で「会える」場所を作ろうとしていたのではないでしょうか。

お墓参りの習慣がなかったのは、故人への想いゆえ?

『源氏物語』「須磨」の章において、都を退去せざるをえなくなった光源氏が、父宮の墓参りを試みるシーンが出てきます。しかし、その墓所はすでに草木が生い茂ってよくわからなくなっていましたが、夜の北山をさまよう中、光源氏が亡くなった父宮の面影をはっきりと感じたという記述があるのです(場合によっては「父の幽霊を見た」と解釈されているときもありますが……)。

源当時の場合は、仏教徒としては完全な「無」に早く帰りたいけれど、遺族の悲しみが薄れるくらいまでは、この世に居場所を作っておこうかという気持ちだったのではないでしょうか。だからこそ堅固な大寺院ではなく、早晩なくなるであろう、ひとりの僧侶の私邸を安置場所に選んだのかもしれません。

平安時代の貴族たちには、墓参りの習慣はほとんどなかったといわれます。後世のように彼らの日記や、文学の中に「墓参」がほとんど出てこないからなのですが、本当の理由は、残された者が故人に執着することが、故人の極楽往生を妨げる行為であるがゆえに、自粛していたからなのかもしれませんね。

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