江戸時代以降、明治後期までの長い期間、日本のお葬式のクライマックスは「葬列」でした。
お葬式では「遺体の処遇をどうするか」という問題が一番に考えられていた時代はもはや過ぎ去り、遺体の処遇が上手く出来るのは当たり前となると、遺族に気持ちの余裕が生まれます。
ですから土葬でも火葬でも、火葬場もしくは墓所まで遺体を運んでいく際、どうせなら長い行列を作って練り歩き、それを故人や故人の属する「家」のステイタスの証として見せびらかそう……と考えたようなのですね。
特に、その当時「葬列」にカネを使いたがるのは富裕層にありがちなことでした。
遺族による「見栄」をプロデュースするために生まれた葬儀社
江戸時代にはすでに葬列に使われる小道具=葬具をレンタルしたり、販売する業者が存在しており、棺屋や輿屋と呼ばれています。
また、行列は長ければ長いほど良いとされたので、親族や知人だけでは足りない場合、人が集められる場合すらありました。
誰かの葬列に神妙な顔で連なり、それ「だけ」で生計を立てている“プロ参列者”もいましたし、アルバイトとして参加するスタッフもいたそうです。
人足を集める団体と葬具を取り扱う商店の二つが合体して出来たのが、近代的な意味での「葬儀社」です(ちなみに東京では明治10年をすぎたころから「葬儀社」という業種とそれをさす言葉が誕生しました)。
『東京風俗志』には「昔の棺屋は発達して葬儀社となれり、葬儀に入用なるいっさいの器具を初め(原文ママ)、人夫などに至までも請け負い(略)葬儀を盛にし易く(略)豪華を衒ふ風、盛となり」との記述があります。
葬儀社はもはや葬儀を手伝うだけでなく、葬儀のあり方をプロデュースする立場になってきていることがわかりますね。
大阪でも明治16年ごろから、大坂では「駕友(がゆう)」と称する葬列用スタッフを手配する業者が葬具を取り扱うようになり……という東京とあまり変わらない事情のもとに葬儀社が結成されていっています。
たとえば明治時代の新聞記者・著述家で、実業家としても知られた中江兆民は、「告別式」と称する、無宗教のいわば新しいお葬式をプロデュースしていきました。
中江が亡くなると、遺体の納められた棺が式場正面に安置され、生前にゆかりのあった人々から「弔辞」や「演説」などが続きます。
他にも「弔歌」や「弔詩」も披露され、いわゆる「おわかれの会」という様子だったことが伺えるのですね。
その後、棺は霊柩車で桐ヶ谷火葬場に送られ、火葬されたとのことです。
このように無宗教式のお葬式として始まった告別式ですが、その後、告別式の名前だけが継承され、キリスト教や仏教各宗派における「シンプルなお葬式」というような意味になっていったのは興味深いことです。
大正年間になると、大学関係者などインテリ層が告別式を本葬とする葬儀を行うようになった一方、田舎から都会に出てきた人々が突然亡くなった際の仮葬がわりとしても告別式を行うことに、人気が集まるようになりました。
このようにして見ていくと、お葬式の常識は、時代によって本当に大きく移り変わっていることが興味深く思われます。
しかし変化があることは、お葬式を大事にしたいという日本人の心の表れが見られるということなのです。
人気の演出「葬列」が一掃されたのはなぜ?
こうした葬儀ビジネスの成立とともに、いっそう華美化していくお葬式は、憧れられると同時に批判的な目を向けられることも増えました。
そもそも葬式にここぞとばかりの散財ができるお金持ちでなければ、豪華なお葬式を上げることができないからですね。
明治20年代くらいから、あまりに豪華な葬列は遺族の意向で中止という事例が増えています。
これは白昼堂々、公道のまんなかを練り歩くこという行為が、「時代遅れ」になってきた観が出てきたから……という理由だけではありません。
道路を路面電車や馬車、そして自動車が走ることが増え、葬列が交通の邪魔になることが出てきた点が大いに影響します。
まさに路面電車や馬車など移動手段が一般化、そして発達するにつれ、長距離を自分の足で歩くという江戸時代以来の習慣が廃れたことが大きいようです。
要するに参列者が歩けなければ、葬列自体、成立しないのですからね。
こうして大正期には行列自体が廃止され、その結果、生み出されたのが遺体や会葬者をお葬式の会場や、斎場に連れて行くための「葬儀馬車」というサービスです。
葬儀馬車はその後、大正期には霊柩自動車に姿を変えていき、今日までその習慣は続いているのです。
告別式が生まれた原動力は「私らしい葬式」
さらに明治時代末ごろから、都会のインテリ層を中心に、葬列はもちろん従来のお葬式自体を敬遠する傾向が増えました。
シンプルにいって「私らしくない」という理由です。
『いまや葬儀に欠かせない「告別式」はベストセラー作家が考えた?!日本初の原型を作った「中江兆民」』