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コラム 死と生の文化史<パンデミック編> presented by 雅倶楽部 2021年8月31日掲載

【江戸28万人が…】ペリー提督『開国シテクダサイ』…幕末史上最悪の感染事故発生

ペリー提督による黒船来航後「いとあやしき病」が流行し100万人都市だった江戸では約28万人が病死。不平等条約など、政治経済の観点から語られることが多い「黒船来航事件」ですが、その裏ではある疫病が持ち込まれてしまっていました。本稿では、開国と疫病の関係について迫ります。

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「幕末モノ」の歴史ドラマの中で、ドラマティックに描かれることが多い「黒船来航事件」。

今年の大河ドラマ『青天を衝け』でも、たいへん衝撃的な事件として描かれました。

嘉永6(1853)年6月3日、現在の神奈川県の浦賀沖に中国沖で合流し、琉球王国経由で日本にやってきたアメリカ海軍の巨大な軍艦4隻の姿に、日本人は大きな恐怖を感じました。

しかし、すぐに慣れてしまったともいいますね。ペリーは実際の攻撃を許されておらず、したがって威嚇といっても軍艦の空砲を鳴らすだけで、日本人たちはその意図をすぐに見抜いてしまったのでした。

ちなみに“提督”(正式には代将)マシュー・ペリーの離日は6月12日のことでした。

イメージよりもずいぶんと短期間だったのだな、と驚くかもしれませんね。

当初はアメリカ大統領の手紙を、幕府の将軍に渡すと息巻いていたものの、当時の将軍・徳川家慶(第12代)は重い病気で床についていました。
威嚇の効果もないとすれば、「次の手」がなかったからです。

こうして日数にすれば、たった9日でしたが、ペリーによる黒船来航は日本に大きな爪痕を残しました。

ペリー再び…

ペリーが、再び現れたのは約半年後、嘉永7年・安政元(1854)年のこと。

これ以降、日本とアメリカは、開国・通商開始にむけて実に粘り強く交渉を続けることになります。

しかし、開国に付き物の問題が単純に政治や経済の話では終わらず、疫病という観点からも恐ろしい側面を持っていたと日本人が思い知るのは、安政5(1858)年のことです。

この年の6月19日、ときの大老・井伊直弼は、不平等条約として知られる「日米修好通商条約」を“独断”で締結してしまいました。

日本はついに江戸時代初期以来の鎖国をあきらめ、アメリカと交商することを約束するという状態に陥ったのでした。また、条約締結に、ときの帝である孝明天皇の勅許(=おゆるし)は得られていないままでした。

そして……本格的に異国との交流が再会された日本を襲ったのは、恐ろしい疫病だったのです。

昨今の“コロナ禍”でも「移動」による感染者の増加については、様々な議論がされてきました。

「移動」によって疫病の原因となるウィルス、もしくは細菌が拡散することは事実ではあります。

実際に、感染源の「移動」が原因となり、幕末日本では史上最悪の感染事故がおきました。当時、すでに「100万人都市」だった江戸では28万人以上が亡くなっています。

日本全土ではいったいどれくらいの犠牲者が出たかは正確な戸籍のなかった当時、よくわかりません。ヘタすれば日本人の3分の1程度が、根こそぎやられてしまったといってもよいでしょう。

この時、猛威を奮ったのはコレラでした。

すでに最初のコレラの全国的流行は19世紀はじめに起きてはいましたが、まだまだ目新しい病であったことが、犠牲者を増大させたといわれます。

「いとあやしき病」の感染源は?!

今回の感染源は、まさにペリーの艦隊に属していた「ミシシッピー号」に乗っていた船員たちでした(ちなみにペリーは2回目の日本来航を終えた後、体調不良を理由に軍務から引退しています)。

「ミシシッピー号」が日本に3度目に姿を現した安政5(1858)年6月、日本中を真の恐怖のどん底に叩き落とす事件が起きました。
この当時、多くの日本人にはほとんど「未知の病」であったコレラが、「ミシシッピー号」に乗っていた感染者の船員によって、長崎に持ち込まれてしまったのです。

「ミシシッピー号」が長崎に寄港した後、日本全土にまたたく間にコレラの感染は広まっていきました。
長崎から東北・蝦夷地にいたるまでわずか1年ほどで感染は広がり、冬場は下火になるものの、ある程度落ち着いたといえるまでにはなんと3年もかかってしまったのです。

最初に感染が拡大した長崎では、治療に奔走したオランダ人医師ポンペによる正確な記録があり、総人口6万人のうち1583人が発症、767人が死亡、致死率は48%でした(酒井シヅ編『疫病の時代』)。

実際、ここまで死者が多く出てしまうと、社会や経済活動に大きな支障がでます。庶民の場合、個々で満足な葬儀を行うことはできなかったでしょう。
地方によっては、犠牲者の集合墓としての「供養塔」を、費用を出し合って石碑にして建てることもありました。その供養塔に詳しい当時の惨状を書き込んだケースもあり、当時の人々の苦悩と諦念を見ることができます。とくに有名なのは現在の埼玉県越谷市大泊にある安国寺の供養塔です。

供養塔に刻まれた文章から、この地域では長崎に「ミシシッピー号」がコレラ菌をばらまきはじめてから1ヶ月足らずの安政5(1858)年7月あたりから、「いとあやしき病」に悩まされていたことがわかります。

江戸時代の越谷は、日光街道沿いの宿場町として知られ、人馬の往来はさかんでしたが、感染拡大速度の速さには驚いてしまいますね。

当時、すでに医師など知識層は「コレラ」の病名で表記していますが、庶民たちの間では「コロリ」……つまり、なったらすぐにコロリと逝ってしまうという意味をかけた名前で呼ばれたようです。

もはや神頼みしかない…

さて、越谷を襲ったコレラ禍の中、人々はどうやって病に立ち向かったかというと、安国寺に集まり、仏前に寄進を行い、昼夜を問わず、仏前に祈りを捧げたというのです。

感染症対策としては確実にNGなのですが、安国寺に集まった人は誰もコレラに感染することがなかったそうな。

仏様のご加護への感謝、そして満足に弔ってやることもできないままだった大勢の仲間たちを慰霊するべく建てられたのが、感染が収まった約1年後、安政6年10月に作られ、安国寺に今も存在している石碑なのでした。

幕末の越谷の人々が、自分たちの命を脅かす病・コレラが、アメリカの軍艦からもたらされたものだとは認識していなかったでしょうが、日本が長年の鎖国を解き、開国してしまったという噂は庶民の耳にも届き、不安を抱かせていたことは想像できます。

幕末の日本人たちは疫病の流行に、立ち向かおうとは考えもせず、ただ仏にすがり、犠牲者を慰霊し、彼らの手で災厄が一日も早く消え去ることを祈ることしかできなかったということでしょう。

石碑の末尾はこんな和歌で締めくられています。

みつせ川 渡りわづらふ 人しあらば 手火をし取りて 導べをばせん

※漢字を補い、表記を読みやすいように原文を改訂

「みつせ川」とは三途の川のこと。
意訳すれば「三途の川をうまく渡れなくて困っているコレラ犠牲者の魂がいるのであれば、私たちの信仰があなたがたの旅路の灯りになるよう、祈りつづけましょう(ですから、私たちをどうかお守りください)」
というような意味になりますね。

安国寺を率いていたのは、宏善上人という方でした。大変に人望の篤い僧侶で、明治26年に作られた上人のお墓にはなんと760名もの人が寄進を行った記録が刻まれています。

医師などではなく、宗教者に人望が集まるのも「幕末」という時代だなぁ……と思われてなりません。

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