安倍首相が伝記を愛読しているというイギリスの政治家ウィンストン・チャーチル。
あのヒトラー相手に第二次世界大戦を戦い抜き、イギリスを勝者にした不屈のヒーローです。
90歳まで生き抜いた「健康法」
桁外れのカリスマの持ち主でしたが、その多くは彼の体力・気力が常人離れしていたことに起因していました。
チャーチルは小柄でしたが、70代になるまで心身の疲労を公にすることはほとんどなかったといいます。
しかし、チャーチルの健康法は「したいことをしたいようにする」、ただそれだけでした。
深酒もタバコ(金持ちなので正確には葉巻)も、徹夜のパーティーも、「したければ好きなだけする」。
変な話、ほぼ「それだけ」で90歳まで生き抜いたのですから、本当にすごいものです。
第二次世界大戦中の1940年、チャーチルが英国首相となった時、彼には24時間体制で医者が付きました。
これは他の内閣のメンバーの意向でした。
チャーチルという化け物じみたカリスマ的存在なしでは、他の内閣メンバーに政治をうごかす力はないため、チャーチルを健康なままで保とうとしての判断でした。
この時、チャーチル66歳。
しかし健康にはいまだ絶対の自信をもっており、チャールズ・マクモラン・ウィルソン医師を迷惑そうに迎えたといいます。
心臓発作を暗示で乗り切る
しかし、内閣の判断が正しかったと思わせる機会は、わずか約1年先に訪れました。
1941年12月、依然として第二次世界大戦は続行中で、ヨーロッパではヒトラー率いるナチス・ドイツが優勢でした。
ただし、この時期、アメリカの参戦も決定したので、チャーチルはアメリカに飛行機で飛び、ルーズベルト大統領に軍事的支援を得るための会談を持ちかけました。
ところが、この12月27日、チャーチルの身体を異変が襲います。
彼は息切れと胸の鈍痛をウィルソン医師に訴え、それは「冠状動脈不全」という心臓発作でした。
通常なら、心筋梗塞をおこし、こんどこそ死んでしまいかねない事態にもつながるため、六週間の安静が課されます。
しかしイギリスの、いや世界の平和を守るためのキーパーソンだったチャーチルを今、休ませておくわけにはいきませんでした。
六週間も安静にしていれば、世界中に「チャーチル不調」の報(しら)せは届いてしまいます。
ナチス・ドイツもいっそう勢いづくでしょう。
一方で、今回の発作が心筋梗塞につながらない可能性「も」ありました。
ウィルソン医師はその可能性に賭けることにします。
彼は、心臓病の可能性を心配しているチャーチルに「過労が原因です」と告げました。
するとチャーチルはホッとした様子で「私は休んでいるわけにはいかないんだ」「胸の筋肉が痙攣したんだな」などとまくしたてました。
完全に騙されたわけです。
ちなみに1895年、青年時代のチャーチルはスコットランドにあるロックフォール湖での水泳中、筋肉の痙攣が原因で溺れかけたことがありました。
Alexander Fleming アレクサンダー・フレミング
この時、近隣の農家の少年がチャーチルを蘇生させてくれたのですが、その少年は後にペニシリンを発見するアレキサンダー・フレミングでした。
かつても自分を殺しかけた「筋肉の痙攣」でチャーチルが納得してしまったため、診療内容をウィルソン医師は自分の心の中にとどめ、チャーチルにさえ真実を告げず、彼には無理をさせない程度に活動を続けさせることにしました。
いわば、医師としてトンでもないことをしているのですが(そもそも、医師が回想録を書いて、患者チャーチルの病状を公表することも守秘義務に反しているのですが)、このウィルソン医師の判断のおかげでチャーチルのカリスマは保たれ、チャーチルは任務を成し遂げることができました。
隠蔽により保たれた「不屈のカリスマ」
第二次世界大戦末期の1943年、イギリス・アメリカなどの連合国軍はナチス・ドイツなど枢軸国に対し、優勢を取り戻していました。
しかし、アフリカのカルタゴの砂漠のまんなかにいるとき、つまり、医療設備もなにもない場所でチャーチルは心臓発作を再度おこしてしまいます。
今回ははっきりと「灰色の顔色」でまともに歩けない状態、つまり死にかけていたのですが、この時も老化にともなう心臓の病という、生死に関係する事実は公表されませんでした。
「風邪をこじらせ、肺炎になった」・・・・・・つまり、抗生物質(フレミングのペニシリン!)で治療可能な病気に「しか」なっていないという情報のみが世間には公表されたのです。
そして、しぶとくチャーチルは今回も生き延び、「不屈のカリスマ」という彼の評価に大きなキズがつくことはありませんでした。
今回はさすがのウィルソン医師もチャーチルに「あなたは(老化による)心臓の病である」と告げなくてはなりませんでしたが、1945年に第二次世界大戦は無事集結、チャーチルの大仕事もひとまず片付きました。
それに自分が心臓をわずらっているという事実を知ったところで、チャーチルは酒もタバコもまったく止めませんでしたし(趣味の乗馬中ですら葉巻を手放さなかった証拠として、1948年、74歳の時の写真が残されている)、1955年4月5日の引退の日までは、しぶとく首相の座にいました。
81歳でのリタイアでした。
何もかも退屈だ!チャーチルの最期
これまで心臓病を抱えてもなお「健康」でありつづけたチャーチルですが、引退直後から「私がこれ以上生きている意味などない」と呟くようになり、本当に「不健康」な状態になってしまったのです。
結局、90歳でなくなるまでの約10年間の引退生活を余儀なくされたチャーチ
ルは、うつ病に苦しみました。
うつの症状が強い時期を「黒い犬」とチャーチルは呼びましたが、次第にその時期は増えていき、最晩年は酒とタバコとコーヒーをたしなんだ後、「血行がよくなった」と周囲に見える時にだけ、往年の活発さを取り戻したそうです。
持病の心臓病より、引退で「心が死んだ状態」になったことで、チャーチルの健康は本当に崩壊したのは興味深いですね。
1965年1月24日「何もかも退屈だ」の最後の言葉を残し、90歳で亡くなっています。
葬儀は慣習に反してイギリス王室も参列する国葬でしたが、チャーチル本人がウェストミンスター寺院に自分が埋葬されることを拒否し、その棺は彼の故郷、オクスフォードシャー州のブレイドン村の教会に葬られることになったのでした。
最後まで「好きなように生きる」ことを貫こうとした人生だったのかもしれません。