『源氏物語』は紫式部の深い悲しみから生まれた
現在から1000年以上前に書かれたにもかかわらず、現代文学を先取りするような、精緻な心理描写で有名な『源氏物語』。『源氏物語』には同時代の作品とは大きく異なる特徴がいくつかあります。その一つが、「死」についても積極的に描いているということ。重要な登場人物が次々と亡くなり、残された者たちの悲しみが描かれている点です。
平安時代においては「死」にまつわるすべては重大な「ケガレ」として、忌み嫌われる傾向がありましたから、『源氏』だけが当時の人々のリアルな「死」と「弔い」を描き、今日に伝えてくれているといえるでしょう。
平安時代の貴族の平均寿命は、30歳程度でした。『源氏』でも40歳を迎えると長寿を祝う儀式が行われはじめることが記されるほどで、現代では考えられないほど、それまで元気だったはずの人が突然、亡くなることを当時の人々は経験していたのです。
「亡くなる」という意味の古語として、「はかなくなる」という言葉がありましたが、本当に「人の生命など儚い」といわざるをえなかった当時の状況を色濃く反映していると思われてなりません。
現代人の目に、平安時代の平均寿命が極端に短いと思われる理由は、生まれた子供の大半が乳幼児の時点で病気などを理由に亡くなり、お産をきっかけに女性が亡くなる率も非常に高かったからでしょう。それゆえ、当時の平均寿命は現代とは反対で、男性のほうが若干長くて33歳程度。女性は27歳くらいだったそうです。
20世紀の大学者・今井源衛の仮説では、紫式部が『源氏物語』を書いたのは、夫・藤原宣孝が亡くなってからの約4年間で、深い悲しみと鎮魂の思いの中での作品だったといいます。
わずか3年間の藤原宣孝との結婚生活・・
今回は、今井源衛の説に基づき、天禄元年(970年)に紫式部が生まれたと仮定しましょう。
紫式部が結婚したのは、長徳4年(998年)の晩秋ごろ、紫式部が29歳の時でした。新郎の藤原宣孝は、紫式部より17歳年上の46歳で、彼女から見れば、ほとんど父親のように感じられることも多かったはずです。当時の貴族女性の結婚適齢期は十代前半だったので、29歳の花嫁だった紫式部も異例の晩婚といえるでしょう。
藤原道長に仕える宣孝は華やかで社交的な人柄だったと伝えられています。昔から女性関係も派手で、すでに多くの妻や愛人がいるところに、紫式部も加わった形での結婚です。
学者肌の紫式部と宣孝とでは価値観が異なる部分もありました。宣孝が「有名人」紫式部からの恋文を他の女たちに見せびらかし、それに怒った彼女との間に大喧嘩が勃発したこともありましたが、概して夫婦仲は良く、結婚生活は幸福なものだったようです。そんな夫が、結婚からわずか3年で亡くなってしまうとは……。
歌集『紫式部集』には、おそらく、生前の宣孝が語っていた言葉や姿をふいに思い出し、それを歌にすることで亡き夫を鎮魂し、自身の悲しみにも向かい合おうとする紫式部の姿が見られます。
「見し人の 煙(けぶり)になりし 夕べより 名ぞむつましき 塩竈(しおがま)の浦」
これは、景勝地として知られた「塩竈の浦(現在の宮城県)」を描いた絵を見て、紫式部が亡き夫のことを思い出したという歌です。
筆者の想像ですが、紫式部は生前の宣孝から、塩竈に行ったことがあるという話(もしくは、彼の知り合いが塩竈を訪ねたというような話)を聞かされたことがあったのかもしれません。
だからこそ、塩竈の浦を描いた絵を不意に目にするだけで、夫と語り合った思い出があざやかに甦ってしまい、それ以降、「塩竈の浦」という言葉自体が彼女にとって特別なものになってしまった……という意味だと思われます。
平安時代の人々にとって、本当の「弔い」とは葬儀や、呼ばれた僧による読経などの儀礼だけ終わるものではなく、「死」に直面した悲しみを自分で克服していくまでのすべてだったのです。
紫式部が自分に与えられた文才のすべてを費やして宣孝の死の悲しみを昇華させるべく、夫の喪中に『源氏』は書かれたのではないか……そう考える今井源衛の推論には、十分な説得力がある気がします。
これらは『源氏』に死の影が色濃くつきまとっている理由のひとつともいえるでしょう。紫式部が光源氏や『源氏』の登場人物たちに仮託した、鎮魂の思いを次回から垣間見ていきましょう。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
今井源衛の仮説通り、藤原宣孝の喪中に『源氏』が執筆されたとしても、それはいわば「プロトタイプ」で、作中に頻出する宮中行事の描写などは、紫式部がその実物に接した後に加筆されていったと考えられます。