長い時間の中、環境に適応して生物は進化するという「進化論」で有名になった19世紀イギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィン。
すべての生物は、太古の昔に神の手で作られたままの形と考えるキリスト教的常識を、科学的観点からうちやぶってしまった人物です。
しかし、革命的な説を唱えるわりにダーウィン本人は臆病といってもよいほど神経質な人物でした。
記録魔「ダーウィン」
富裕な科学者一族に生まれたダーウィンですが、エディンバラ大学で医学を学ばせようという家族の意向にそむき、ケンブリッジ大に移籍、神学を学んだことも一時はありました。
しかし、昆虫学者のいとこの勧めもあり、神学を学ぶ傍ら、子供の頃から大好きだった昆虫や植物の標本採集にふたたびのめりこみはじめました。要するに医学は嫌いでも科学への情熱は健在だったわけです。そんなダーウィンは22歳の時、イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗り込むことに成功します。
そして自然科学者として世界各地を約5年間以上も研究してまわり、様々な動植物の標本をイギリスに持ち帰ります。
1837年に書かれたスケッチ
ダーウィンによるとその数、なんと5436種類……典型的な記録魔だったダーウィンは何もかも詳細にメモを取るクセがありました。
この研究旅行は、ダーウィンがアクティブに活動した最後の旅になりました。
これが終わると、ダーウィンは家からなかなか外に出ようとも、人に会おうともしたがらなくなります。
生命は進化してきたという例の「進化論」にダーウィンはすでに取り憑かれてしまっており、それはキリスト教では異端的な考えでした。
その後、なんと約20年もの間、本当に親しい人を除き、自説を秘密にせねばならないと思い、彼は悩み苦しんだのです。
なぜダーウィンは引きこもったのか?
1839年には従姉妹のエマ・ウェッジウッド(陶器のウェッジウッド一族の出身)と結婚し、多くの子どもを授かります。
資産は豊富にあったので、1842年からはケント州の通称ダウン・ハウスと呼ばれる広大な屋敷に閉じこもり、研究三昧の日々を死ぬまで送るようになりました。
ダーウィンには資産があったので、職につく必要がなかったのです。
「進化論」という、キリスト教では異端者扱いされかねない「秘密」を胸に秘めたダーウィンは、意図的に他人を避けるようになっていました。
屋敷にとじこもる少し前の1840年頃から、嘔吐をはじめとして、頭痛、めまい、湿疹、不眠……と「不調のデパート」ともいうべき症状の嵐に悩まされつづけています。
原因は、進化論という真実を隠していなければいけないというストレスです。
とくにダーウィンを苦しめたのは嘔吐でした。
食事のたびに嘔吐し、夜中だけでも数度戻すというのが通常の生活で、薬や主治医による治療はまったく効きませんでした。
ほぼ唯一の例外が、1849年からの数年間で、めずらしくも屋敷を出て、英国王室御用達の温泉療養地モールヴァンに家族に滞在していた時のことです。
そこにはジェイムズ・ガリーとウィリアム・ウィルソンいう医師が共同経営する、当時最新鋭の「冷水療法」が受けられる施設がありました。
この時、ダーウィンが嘔吐しない記録は最長30日になるなど、「効果」があったそうです。
単純に研究から遠ざかっていたので、ストレスが少なかっただけともいえますが……。
ダーウィンとその子供
しかし、ダーウィンと共に治療を受けていた最愛の娘アニーが、1850年結核と思われる病で亡くなります。
実は(おおむね)信心深かったダーウィンは「神なんかいない」と思い込み、冷水療法もとりやめ、屋敷に戻ってしまいました。
この冷水療法というのも、たとえば2500リットルもの凍るような水を背骨にかけ続けたりするスパルタ療法で、現代医学的な観点から見て、効果はうたがわしいシロモノでしたからね。
狭心症だったダーウィンの心臓がよく止まらなかったものです。
ちなみに最愛の娘の死を悲しみ、みずから弔文を書いて悼んだダーウィンですが、葬儀に集まってくる他人の目が恐ろしくてならず、娘の葬儀には出席すらできませんでした。
人間の祖先は猿?ついに自説を発表
1859年、50歳という節目の年にダーウィンはついに沈黙をやぶり、自説を『種の起源』という著作にまとめて世に問います。
最初から1250冊以上の注文が入りましたが、これは当時の研究書としてはベストセラーといってよいセールスでした。
1871年の時には、猿を人間の先祖だとするさらに大胆な説も発表しています。しかし、保守的な人々はダーウィンの説に激怒しました。
いっそうダーウィンの引きこもり癖と嘔吐癖は悪化します。
学会などには出られず、世界とは手紙でつながっているだけでしたが、2000人以上もの人々と文字で意見を戦わせる日々をすごします。
1882年4月19日、体調不良がいよいよ最悪のものとなり、少し寝付いた後、ダーウィンは自邸でひっそりと亡くなりました。
73歳でした。当時ではかなりの高齢で、生来病弱だったにしては健闘したほうかと思われます(ちなみに死の少し前、生涯で400万回目の嘔吐をしたことをダーウィン自身が記録していますが)。
また生涯の大半の時期、目立つことを恐れつづけたダーウィンは、自邸ダウン・ハウスの地元墓地にひっそり埋葬されることを望んでいました。
しかしイギリス政府は彼の死を知ると、ダーウィンの進化論の卓越性を評価し、彼の葬儀を国葬で執り行いたいと申し出てきます。
そしてロンドンのウェストミンスター寺院で、あのアイザック・ニュートンの隣に遺体を埋葬したいという、いわば科学者としての最高の栄誉を与えたいのだと遺族に伝えたのでした。
断ることなどできず、ダーウィンはウェストミンスター寺院に眠っています。
ウェストミンスター寺院といえば、ウィリアム王子とキャサリン妃がロイヤルウェディングを挙げた場所として記憶に新しいですし、最近のニュースではホーキング博士がダーウィンたちの隣に眠ることになりました。
華々しい人たちに囲まれたダーウィン、緊張のあまりあの世で嘔吐などしていなければよいのですが……。