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コラム 逃げ若 2024年8月1日掲載

【逃げ若】鎌倉幕府滅亡・・・北条家一族郎党の戦死者はどうなった?

新田義貞率いる「鎌倉攻め」により、鎌倉幕府の執権であった北条一門は自害または処刑により1333年に滅亡しました。
滅亡後、北条一門・一族郎党の戦死者はどのように弔われたのか…本稿では、史実をたどりつつ、昭和28年に九品寺から発見された大量の遺体とあわせて考察してみたいと思います。

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2024年夏アニメの中でも『逃げ上手の若君』に大きな注目が集まっていますね。原作は「週刊少年ジャンプ」(集英社)にて連載中の同名漫画で、原作者は『暗殺教室』でも知られる松井優征先生です。

しかし戦国や江戸とは異なり、日本史ファンの間でもそこまで人気は高くはなさそうな鎌倉時代末期を舞台にした作品にもかかわらず、人気なのは、コメディ要素と人命の価値が非常に軽かったハードな時代背景がテンポよく交錯していく物語のスピード感がよいからでしょうか。

主人公の「若君」こと北条時行は、作中では「貴公子」の扱いで、「幕府のトップ」の家門の嫡男(いちおう邦時という兄はいるが、彼は側室の子なので、家を継ぐことができないという設定)ということになっていますが、史実で見る限り、時行の母親も不明ですし、彼の生年すらわかっていないのです。それゆえ、時行も実は側室の子だったのではないか……という気は筆者にはします。

しかし、それ以上に史実と作中設定の大きな相違点としては、幕府にまったく将軍の存在が感じられず、時行が生まれた家――北条一門の中でも「得宗(とくそう)家」と呼ばれてきた北条家嫡流の血筋が、名実ともに鎌倉幕府内の頂点として描かれている点でしょうか(「得宗」など用語解説は本家サイトにてご覧いただけます)。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

得宗(とくしゅう・とくそう)とは、北条家嫡流のこと。いわゆる「総本家」。北条時政・義時父子の時代から執権を輩出しつづけ、将軍の最側近として幕府内で特別視される存在ではあった。

たしかに鎌倉幕府の創立者である源頼朝の血筋は三代将軍・実朝で途絶えていましたが、『逃げ若』の舞台である鎌倉時代末期においても、鎌倉幕府の「トップ」は、京都から派遣されてきている皇族もしくは五摂家(最高位の公家)出身者が歴任してきた将軍でした。執権は将軍の最側近であり、補佐役を務めましたが、あくまで将軍の家臣のひとりにすぎません。

ただ、最後――つまり第9代・鎌倉将軍こと守邦(もりくに)親王は、将軍としての在位期間だけは歴代将軍の中で最長だったものの、正慶2年(1333年)の幕府滅亡時に一体何をしていたかも不明なんですね。そして幕府滅亡から3年後、ひっそりと鎌倉もしくは関東の地において守邦親王は病死したらしい……という情報だけが後世に伝わっているという影の薄い御仁ではありました。

それゆえ学生さんは、史実における鎌倉幕府のトップは依然として将軍でしたが、実質的な「幕府のトップ」は、時行の生まれた「(北条)得宗家」であり、足利高氏による謀反がなければ、時行が父から執権の位を譲られていたかもしれない……と覚えておくとよいでしょう。

ちなみに作中の時行の年齢は、現在なら小学校中学年くらいでしょうか。しかし、史実の時行には元徳元年(1329年生まれ)という説があり、幕府滅亡時には数え年でも5歳、満年齢では4歳――つまり幼稚園児くらいだったようですね。「逃げ若」の時行は、史実より少し年長に設定されたキャラのようです。

時行のその後の人生については、原作がこれから描いていくでしょうから、ここでは詳しく述べませんが、20代半ばという若さで終わってしまう人生を、太く短く、有意義に生きた人物だとは申し上げておきます。

鎌倉攻めで出た大量の戦死者の遺体はどうなった?

さて、前置きが長くなりましたが、アニメの第1回=原作の第1話では、時行が愛する「武家の都」鎌倉が、京都の後醍醐天皇と密通し、幕府を裏切った足利高氏(この時はまだ「尊氏」とは名乗っていない)の派遣した軍勢によって瞬く間に攻め滅ぼされ、時行の家族や家臣たちも、類まれな逃げ足の速さと強運の持ち主である時行を除き、全員が絶命したという悲劇が描かれました。

情報を補足すると、この時に鎌倉を攻めたのは足利高氏の遠い親戚にあたり、清和源氏の嫡流の出身である新田義貞という名将であり、義貞の勇名は、この「鎌倉攻め」の大成功によって全国規模にまで高まったのです。しかしこの戦いにおいて大量に出た戦死者の遺体は、その後どうなってしまったのでしょうか?

鎌倉幕府末期の日本には、死者の埋葬を目的として、現在のように「◯◯家の墓」などと刻んだ石碑を建てた墓地を作るという発想はありません。「遺骨に故人の魂が宿る」という思想は誕生はしていますが、現代ほど一般的ではなかったからです。

それでは当時の死者の埋葬はどうだったかというと、北条方の戦死者の葬儀については、新田義貞の命令があるまではほとんど何もされず、何年もの間、遺体や白骨は朽ちるがままだったのではないか……と推測されるのです。

昭和28年に910体もの遺体が発掘

しかし、延元2年(1337年)、義貞の命によって鎌倉に建立された九品寺は、「鎌倉攻め」の際に義貞の本陣が置かれた場所であり、現在では材木座という地名で呼ばれているエリアに位置しています。

昭和28年(1953年)、この材木座地区を大々的に発掘調査したところ、土中からほぼ成年男性だけの910体もの遺骨が発見され、骨にまで到達した傷跡があったり、野犬などの獣に噛まれた骨も散見されたことから、おそらくは「鎌倉攻め」における戦死者のしかばねが長い期間、戦場だった土地に放置されていたと考えられるのです。

死者たちを憐れんだ僧が自発的に野辺の頭蓋骨を拾い上げ、額の部分に供養を目的として「阿」などの文字を書いて、重ねた形跡もありましたが、ほとんどの遺体が「風葬」の状態で朽ちるにまかされていたのでしょう。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

「阿」の文字の解釈としては、それが当時、広く信仰されていた阿弥陀如来の頭文字にあたるので、阿弥陀如来による魂の救済を目的としていたのではないでしょうか。

そうやって放置されていた多くの白骨は、おそらくは延元2年(1337年)に新田義貞が九品寺を建てたタイミングで、義貞の命によって土中に埋葬されたのだと推測されます。材木座地区には合計32もの穴が掘られ、そこに合計910体の兵士たちの遺体と、同時期に戦死したであろう馬などの骨も共に埋められていたという事実は興味深いですね。

これが「鎌倉攻め」を行い、大量の戦死者と引き換えに北条家による幕府支配を終了させた義貞にできる、せめてもの償いだったのでしょう。

ちなみに、史実の新田義貞は慈悲深い人物だったようですよ。『逃げ上手の若君』第一話でも馬上の義貞が、何やらコワモテの武将としてチラッと映っていましたが、史実の彼には残虐さだけでなく、信仰心があつく、情け深い一面もあったことは覚えておきましょう。

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