ココ・シャネル (デザイナー・1883年8月19日 - 1971年1月10日) | |
最期の言葉 | 「ほら・・・・・・こんな風にして、人は死ぬの」 |
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晩年になるまで自分を「マドモワゼル」と呼ばせ、孤高の人生を貫いたココ・シャネル。
19世紀末のフランスではモテるといえば、グラマラス・・・・・・もっというとかなり太めで、従順な女性が中心でした。
一方、やせぎすのシャネルは率直な言動で男性の気を惹き、モテモテになったのです。
彼らに貢いでもらって最初の店である帽子屋「シャネル・モード」もオープンできたし、その後も多くの恋の花を咲かせました。
しかし次第にデザインの仕事こそが、自分の永遠の恋人であるとシャネルは気づいたのです。
ココ・シャネル Gabrielle "Coco" Chanel
「日曜日が嫌い。だって誰も働かないんだもの」と言っていたシャネルでしたが、彼女が亡くなった1971年1月10日は、まさにその日曜日でした。
シャネルは仕事場の店近くの高級ホテル、リッツの一室に長年住まっていました。
亡くなる直前まで、次のコレクションのための仕事を進めていたのですが、襲いかかってくる不安や不眠といった症状との闘いでもありました。
Chanel N°5(ナンバーファイブ、もしくはニュメロサンク)など、シンプルな名称、おなじくシンプルな瓶のデザインなど当時としては画期的なまでに個性的な香水が、全世界でヒットしていたので、経済的には潤っていました。
しかし、衣服デザイナーとしてのシャネルには何度も「もはや彼女の服は流行遅れ」という手合の非難が浴びせられました。
不安症を改善するため、医師から1日1本のモルヒネ注射を打つようにいわれていたのですが、手が震え、どうしても注射がうまくいきませんでした。
死を悟ったシャネルは、心配する一人のメイドを前に「ほら・・・・・・こんな風にして、人は死ぬの」と言いながら、死んでいったそうです。87歳でした。
第二次世界大戦中にナチス・ドイツに接近したことを責められたので、シャネルはフランス国内の墓地ではなく、疎開生活を送ったスイスのローザンヌに葬られています。
聖なる怪物「サラ・ベルナール」
サラ・ベルナール (女優・ 1844年10月22日? – 1923年3月26日) | |
最期の言葉 | 「いっぱい恋をしなさい!」 |
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19世紀末のフランスを代表する大女優サラ・ベルナール。
「聖なる怪物」といわれたのは美輪明宏の前にはサラ・ベルナールしかいません。
高級娼婦の娘として生まれたサラは母親の恋人の男性たちから可愛がられる一方、父親の顔をしらぬまま成長しました。
一時期はなぜか修道女になろうとしていたそうです。
パリ国立高等音楽・舞踊学校/Conservatoire
Photo: Andreas Praefcke [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html) または CC BY 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by/3.0)], ウィキメディア・コモンズより
しかし14歳の時にフランス国立音楽演劇学校(コンセルヴァトワール)の演劇科の入学試験に合格、女優への道を進み始めます。
現代日本でもタカラヅカ出身者がハムレットなど男性の役を舞台で演じたりしますが、そのハムレットをはじめて女性として演じ、成功したのがサラ・ベルナールです。
彼女の公演のポスターも独創的でした。
チェコからフランスに来て活躍していた頃のアルフォンス・ミュシャに依頼したポスター画は有名です。
目鼻立ちは決して美人というわけではないのに、サラには独特の色気がありました。
相当な高齢になってもお妖しい魅力を放ったサラですが、1915年3月12日、70歳のときに出演した舞台の演出ミスで脚を負傷、後には左足を切断するという憂き目を見ます。
それでも舞台に立ち続け・・・・・・いや、立てない時期は義足は使わず、椅子に座って演技し続けた女優魂の化身みたいなサラですが、ある映画の出演中の1923年3月26日、自宅で亡くなりました。
ちなみに「いっぱい恋をしなさい!」と言われたのは、マザコン気味だった息子のモーリスです。
プライヴェートでも母というより生涯現役の女優でありつづけたサラ。圧巻の最期です。
サラの葬儀は、フランス政府によって、国葬が執り行われました。