坂本龍馬が暗殺されたのは、15代将軍・徳川慶喜による「大政奉還」の騒ぎもまだ収まりきっていない慶応3年11月15日(1867年12月10日)の寒い夜のことです。
それは、彼が潜伏先していた醤油問屋・近江屋の二階にある八畳間でおきた惨劇でした。
潜伏先での「気の緩み」が命取りに
この夜の龍馬には、普段では考えられない甘さがありました。
部屋に同席していたのは、龍馬の「盟友」中岡慎太郎一人です。
彼らは偽名をつかって潜伏しているのに、「先生、久しぶりです」などと言って入ってきた、見知らぬ男たちを、ぬけぬけと部屋に入れてしまっているのです。
龍馬は最初眉間を切られ、つぎに背中を袈裟がけにバッサリ、さらに二度、頭部を攻撃されて動けなくなったところを、「もうよい」と止める者がおり、ようやく殺人者たちは近江屋から立ち去っていったそうです。
これらの証言をしているのは、龍馬とともに襲撃され、その後長い間苦しんだ末に絶命した中岡慎太郎です。
作者 大坂屋与兵衛 (維新土佐勤王史(1912年刊)) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
龍馬とは盟友とされる中岡ですが、実際のところ、中岡のアイデアを龍馬が自分のもののようにしてしまうことも多々あり、関係は悪化していました。
また一説に、この事件のあった夜に中岡は実は龍馬と深刻な口論をしていたのでは……という仮説すらあります(寺尾五郎『中岡慎太郎と坂本龍馬』)。
中岡はこれらについては沈黙していますが、プライドの高い人ですからね……。
それこそ、二人の間に一触即発的な険悪な空気が流れていたからこそ、作り笑顔の見知らぬ人物たちをみすみす受け入れてしまったというのは、十分にありうる話だと思われるのです……。
鬼気迫るように感じられるのは、龍馬や中岡慎太郎の受けた傷の激しさです。
龍馬は即死でしたが、その遺体には中岡以上に無残な傷が見られました。頭を二回も深くえぐられるように切られ、脳が飛び出るほどだったのです。
つまり頭蓋骨が損傷していることを指し、尋常ではない力が加えられたことがわかります。
つまり犯人が凄まじい「怒り」を龍馬に爆発させたことを示したことの証明となります。
また、中岡は文字通り、全身を切り刻まれていました。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
龍馬による新政府構想とされる「船中八策」なども、原案は中岡でした。
犯人は禁固刑たったの3年?!
龍馬を殺したのは、「京都見廻組」に所属していた今井信郎という男だといわれます。
江戸の旗本の家(将軍直属の身分の高い武士)に生まれた今井は、龍馬暗殺成功後も野に潜伏し、旧幕軍として戦い続けました。
明治2(1869)年、箱館戦争(五稜郭の戦い)で負傷し、ようやく降伏し、その場ではじめて龍馬殺害に「協力」したという「余罪」を自供。
彼の証言と殺害現場の状況証拠が一致し、罪が確定したのです。
しかし、今井は明治5(1872)年、禁固刑の刑期を「特赦」で終え、刑務所から出てきてしまっています。わずか約3年が服役期間でした。
今井の罪が軽かったのは、彼に龍馬暗殺を指示した「黒幕」がいたことを意味しているのかもしれませんね。
この辺についての推理は拙著の『本当は怖い日本史』をご参照いただくとして、龍馬の死の日にお話を戻しましょう。
醤油問屋・近江屋で不幸にして命を落としたのは坂本龍馬、中岡慎太郎、そして龍馬の用心棒をしていた山田藤吉という男性の三人でした(藤吉は、今井ら殺害犯数名を坂本と中岡の部屋に案内している時に後ろから切られ、即死しています)。
彼ら三人の遺体は18日の午後2時頃、近江屋から出棺。
関係者たちの護衛を受けながら葬列が組まれ、東山にある高台院の裏地の霊山墓地(現在の京都霊山護国神社)に運ばれ、土葬されました。
しかし、よく考えれば龍馬の遺体は死から1週間ほども放置されていたことになります。
たしかに埋葬までの間、龍馬を慕う海援隊・陸援隊、そして土佐藩、薩摩藩、長州藩の面々が次々と龍馬の遺体に最後の挨拶を行う、実質的な告別式が行われていたともいえます。
坂本龍馬の葬式は行われなかった?!
ほかにも、どうやら「大人の事情」があるようです。
17日の夕方ごろ、龍馬と共に切られ、生死の境をさまよっていた中岡慎太郎が絶命したことが18日に葬儀が決行されたきっかけとなったようなのですね。
中岡はある時期まで意識がはっきりしていたので、端的にいえば「やるならまとめて」、龍馬たちと一緒に自分の葬式も出すつもりなんだろうな、と周囲の思惑を感じずにはいられなかったでしょう。
最後まで龍馬に振り回される人生でした。
ただし、周囲も中岡を軽んじていたわけではありません。
坂本もしくは中岡の葬式を分けて実行すれば、殺人犯や彼らの属する組織が差し向けた刺客たちに葬列が襲われ、遺体を奪われる危険もありましたし、それを危惧せざるをえない緊迫感が漂っていたのだと思われます。
「坂本龍馬の葬式は行われなかった」とも言われますが、正確には会葬者が集まったわりには、盛大な葬式を行えなかったということです。
ちなみに、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓表は、たまたま京都に来ていた木戸孝允が書いてくれました。
薩長同盟の立役者・坂本龍馬へのせめてもの心遣いということでしょう。
作者 不明Unknown author (個人所蔵品。) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
龍馬といえば愛妻・お龍を思い出す人も多いかもしれません。
龍馬を失った後は坂本家に一時身を寄せるものの、折り合いが悪く、戸籍からも除籍されたお龍は放浪の後、横須賀で大津出身の行商人・西村松兵衛の妻となります。
この時、彼女は改名し、西村つるとなりました。
しかし西村との関係はあまりうまくいかず、彼女はアルコール中毒となり、晩年は「龍馬が生きていたら私は公爵夫人だった」などと口走るばかりでした。
元・お龍こと、つるは明治39(1906)年1月15日に66歳で死去。
彼女のお墓は、現在、大津の信楽寺にありますが、墓が作られたのは死後8年を過ぎた後のことでした。
それゆえ西村とは内縁関係に過ぎなかったとも噂されますが、彼女に墓を立ててやった西村は、自分ではなく、坂本龍馬の妻として彼女の墓表を刻んでやっています。
かつて自分が愛していた女が無縁仏のようになっていたら彼女の墓を作ってやり、彼女が本当に愛していた男の名前を墓には刻んでやる……粋なことをするものです。
現在、京都霊山護国神社の龍馬の墓にも、彼女のお骨の一部が分骨され、収められています。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
大政奉還が行われたのは慶応3年10月14日(1867年11月9日)。
200年以上にわたって、朝廷から政治の実権を引き受けていた幕府がその権利を朝廷に返上、その後はみなで協力して日本という国を動かしていきたいという宣言のこと。また、これを朝廷側は好意的に受理している。
将軍・慶喜にとっては、彼や幕府を「朝敵」、つまり朝廷の意思に反する者として討とうとしている薩摩藩らの攻撃を交わす目的での決断だった。
坂本龍馬らが直接的/間接的に導いた結果だともされる。