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コラム 逃げ若 2024年10月1日掲載

【逃げ若】現代の葬儀にも影響?!時行の名敵役「小笠原貞宗(小笠原家)」が生んだ小笠原流礼法とは

『逃げ上手の若君』の作中では、「名敵役」でありながらも主人公・北条時行の影の”弓の師匠”でもあった小笠原貞宗。
現代では「小笠原流礼法」として武道における礼儀作法を担っており、その名声はいまだ途絶えることはありません。本稿では、歴史をひもとき、小笠原貞宗と北条家の関係について迫ってみたいと思います。

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アニメ化によって、日本史好き以外にもファンの裾野が広がりつつある『逃げ上手の若君(以下『逃げ若』)』。主人公・北条時行とは敵対関係にありながら、作品のファンの中でも人気が高い小笠原貞宗。

作品中では「名敵役」といった立ち位置でしょうか。アニメに初登場したときには、「我らの小笠原殿が来てくださった」という声がSNS上で目立つほどでした。

『逃げ若』の世界では、超人的な視力を持つ弓矢の名人として描かれる貞宗ですが、彼の子孫たちは「小笠原流礼法」で有名となりました。要するに武家や公家など上流階級のためのマナー講師のような立ち位置です。

小笠原流礼法の歴史によると、小笠原家・七代目当主であった貞宗は、親戚の赤沢常興とともに、家に伝わる鎌倉時代からの弓馬法を、「源氏流弓馬法」として書物にまとめたとされています。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

弓馬法

文字通り、弓や馬を使った戦法も含まれたでしょうが、武士の生き方を「弓馬(きゅうば)の道」ともいうので、身分ある武士としての見苦しくない戦い方について指南するものであったと思われます。原本が存在しないため、具体的な内容は不明ですが……。

後醍醐天皇も認めた『源氏流弓馬法』書

四巻にもわたるこの書物は、後醍醐天皇をも感動させ、小笠原家の家伝となっていったとか。

『逃げ若』でも貞宗が、後醍醐天皇から「王」の字の家紋をいただいたが、あまりに畏れ多いため、王の形をした松皮菱を家紋として作ることにしたという『小笠原系譜』など小笠原流礼法の伝承史料からと思われるエピソードが紹介されていましたが、残念ながら、この逸話に史実性はないようですね。

貞宗が足利尊氏の忠実な部下であったことは史実どおりです。しかし彼はたんなる鎌倉幕府に対する逆賊というわけではありません。小笠原貞宗が北条時行に激しく敵対しつづけた理由は、同家の歴史をひもとけば容易に推理できるのでした。

小笠原家の始祖・長清は、彼の父・遠光らと共に鎌倉幕府初代将軍の頼朝に仕える高位の武士でした。しかしその後、三代将軍・実朝が後継者なしに亡くなった後、(時行の先祖である)北条義時とその子孫たちの権力が増長していったのです。

将軍も、頼朝の親戚筋ではなく、京都の皇族や摂関家(=最高位の公家たち)の出身者の男性が鎌倉に招聘され、形ばかりの将軍として君臨し、鎌倉幕府の実権は執権が握ることになりました。執権の職は、北条家の中でもとくに、義時の子孫たちーーいわゆる「得宗家」と呼ばれる北条家の嫡流に世襲されていったのです。

歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹

北条得宗家

北条得宗家の歴史の最後に位置するのが『逃げ若』の若君こと、北条時行です。

現代の葬儀にも「小笠原流礼法」の影響が?!

小笠原貞宗は一貫して、足利尊氏に忠誠を尽くし続けた人物ですが、足利家の先祖は源頼朝の遠い親戚にあたり、小笠原家も清和源氏の一派ですから、自分たち「源氏」の頭上に、もともとは自分たちの家臣に過ぎなかった北条家に君臨されることは、面白くない状態であったのだろうと想像できるのです。
貞宗は、北朝歴・貞和3年(1347年)、享年56歳で京都において亡くなりました。現代日本のお葬式にも、彼の子孫たちが大成させた小笠原流礼法の影響は大きいとされるので、貞宗の葬儀も盛大に執り行われたのかと思いきや、彼の人生についてはその死に様をふくめ、めぼしいエピソードがほとんど残されていません。
現代ではセレモニーホールなどでの儀式が終わり、火葬場にむかってご遺体・ご遺族が出発するという時、葬儀会社の人々が深々とお辞儀をしてお見送りするという出棺の儀式も、小笠原流礼法に起源を持つとされますが、もしかしたら貞宗もそうやって見送られたのかもしれませんね。
足利尊氏の葬儀は、当時の中国から影響を受けた禅宗(臨済宗)の流儀にのっとって行われ、その流儀は高位の武士たち、そして天皇家や朝廷の人々にも伝播していきました。足利尊氏との関係が深かった貞宗ですから、平安時代の貴族たちがお棺にご遺体を横たえられる「寝棺」だったのに対し、座ったままでお棺に入る「座棺」での葬儀だったかもしれません。そして、そのまま「龕(がん)」と呼ばれる、中国風の特別な輿で運ばれ、大寺院の敷地内で荼毘に付されたのではないでしょうか。

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