発売当時だけで300万冊が売れたという、驚異的な大ベストセラー『学問のすゝめ』の著者・福沢諭吉。
夏目漱石の一番売れた著作『吾輩は猫である』が単純計算で、何万部程度の部数でベストセラーなのに対し、ジャンルこそ違うものの『学問のすゝめ』は300万冊も売れたのですから、驚異的だったとわかってもらえるはずです。
諭吉オリジナルではなかった?!「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」のフレーズ
この本の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という冒頭部分は現代でも有名ですね。
しかしこれ、実際は福沢諭吉のオリジナルの名言ではありません。
18世紀のアメリカの政治家トマス・ジェファーソンらが起草した『アメリカ独立宣言』の一部なんですね。つまり引用。
現にこの部分も「~人の下に人を造らずと云へり」と本当はなっています。
しかもこの直後、実際に人間に違いはあるんだ、というように内容は続いていきます。
「賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」……超訳すれば、人間には二種類いる。賢人と愚人だ。
その違いは、ちゃんと勉強して、学問を身につけられているかどうかにかかっている……そういう内容の本なんですね。
こうして福沢の『学問のすゝめ』という本のタイトルが生きてくるのでした。
さて、1901(明治34)年2月、福沢諭吉は二度目の脳溢血の発作で帰らぬ人になりました。数えで67歳の死です。
あまりにも質素すぎて新聞のネタにされた諭吉の葬儀
前年末の大晦日から新年にかけ、慶應義塾では「十九・二十世紀送迎会」というイベントが開かれました。
かんたんにいうと20世紀という新世紀をいかに生き抜くべきかを考える会です。
そこに福沢も出席、元気な姿を見せていたのでした。
しかし、会から約1ヶ月後、福沢は脳溢血でふたたび倒れ、回復することはなかったのです。
そんな福沢のお葬式は、ニュースになるくらいに異例のものでした。
福沢は「名士」ですから、通例であれば、生前にお付き合いがあった人々が、お葬式には様々な寄贈をしてくるわけです。
さらに福沢は名門・慶應義塾の創始者ですから、卒塾生らも黙っているわけもありません。
しかし、自分の葬式は質素なものにしてほしいという福沢の意志を組んだ教え子の代表者が各新聞に告知を出し、「香花又ハ香花料」の類は、「先生御遺言中ニ固ク辞セヨ」として、供物の辞退をはっきり表明、また実際に供物はすべて謝辞されたのでした。
唯一、遺族らが謝絶せずに受け取ったのは大隈重信からのお花だけでした。
それも大熊本人が、温室で育てた花という理由で受け取られたというので、ここまで「簡素にしてくれ」という遺言が徹底された、しかも名士のお葬式は当時としては異例中の異例でした。
「総べて質素にして然(しか)も荘厳なりしは(略)感動せし処なりき」(『読売新聞』1901(明治34)年2月9日)として、ニュースにすらなったのです。
しかし……福沢のお葬式が異例だったのは、その点だけではありませんでした。
買った墓地が福沢家の宗派と違っていた?!遺言が後世のトラブルに!
彼の葬儀は、麻布の善福寺で浄土真宗の儀礼にのっとって行われました。
福沢の家は、浄土真宗だったのです。
一方、福沢は自分の墓所を、善福寺以外の場所に買い求めていました。
「生前よくこのあたりまで散歩にきて、この地に立つと眺望がきいて爽快になる」がゆえ、大崎あたりの、しかも住職がおらず墓所だけの本願寺に「墓地を買い入れた」のです。
しかし、ここで問題がありました。本願時は浄土宗だったのです。
このため福沢の葬儀は善福寺で、浄土真宗で執り行われ、遺体の土葬は(住職が常駐していない)浄土宗の本願寺で行われました。
明治という時代が、現代に比べて「おおらか」だったこともあるでしょうが、問題も起きずに、お葬式と埋葬が終わりました。
ところが、福沢の葬儀から約76年が経過した1977年5月、福沢の遺体の引っ越しが行われることになったのです。
福沢の遺言どおりにお葬式を行ったがゆえのトラブルといってもよいでしょう。
福沢の眠る本願寺は墓地ごと、隣接していた同じ浄土宗の常光寺に取り込まれてしまっていました。
詳細は省きますが、常光寺の方針では福沢が、すくなくとも浄土宗に改宗した形跡がない点で問題となり、彼の遺族は福沢家の菩提寺・善福寺に福沢の遺骨を引っ越しさせるという決定をくだします。
ここで興味深いことがおきました。
土葬にされていた福沢の遺体は約76年の時を経ても朽ち果てず、眠っているような姿で保存されていたのです!
地下四メートルに埋められていた福沢のお棺は冷たい地下水に浸されていたのが、屍蝋化の理由のようです。
せっかくほぼ完全な姿で残されていた福沢の遺体ですが火葬され、その遺骨だけが福沢家の菩提寺・善福寺に運ばれることになったのです。