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コラム 逃げ若 2024年8月3日掲載 2024年8月31日更新

【逃げ若】「お墓参り」「三十三回忌」…北条家の影響ってホント?!

「お墓参り」や「三十三回忌」といった、いまでは当たり前の仏事ですが、北条家やそれを支えた鎌倉武士たちの”志向”から生まれたことはあまり知られていません。
本稿では、鎌倉〜室町時代の「葬儀」や「仏事」について触れてみたいと思います。

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歴史マニア以外にも多くのファンを持つ、松井優征先生の歴史漫画『逃げ上手の若君』(集英社)。2024年夏にアニメ化され、さらなる人気を呼んでいるようです。

主人公の少年で、「若君」こと北条時行北条高時は、鎌倉時代の実質的な盟主として君臨した北条家の末裔です。しかし、『北条家といわれても、実は北条政子くらいしか知らないなぁ……』という読者は案外、多いでしょう。

鎌倉時代は、現代とはかけ離れているように思えてしまう、「遠い時代」なのですよね。しかし、北条家の影響は、教科書の中だけに見られるものではありません。

たとえば現代日本の「お葬式」や「お弔い」にも、実は北条家や鎌倉武士たちの志向が大きな影響を及ぼしているのでした。

「お墓参り」「三十三回忌」はいつからの風習?

まず、京都にくらす貴族たちとは異なり、北条家を筆頭とする鎌倉武士は故人の慰霊に熱心だったという傾向があり、これが現代の日本にまで引き継がれているという事実が指摘できるでしょう。

関東地方では、現代でも七月にお盆行事を行うことが多いのですが、この伝統も実は鎌倉武士たちの間で始まったもので、それが今日にいたるまで定着しているのです。また、故人の遺骨を収めたお墓に定期的にお参りするという、平安時代の京都の貴族にはほとんどなかった習慣を日本中に定着させたのも、鎌倉武士たちでした。

その中心となったのが北条得宗家――作中の「若様」こと北条時行のご先祖にあたる人々で、北条義時など、とくにカリスマ性が高かった故人の偲び、彼の子孫たちが、生前の義時が建立した寺に忌日に参った記録があります。

また、現在でも場合によっては「三十三回忌」まで故人の仏事を行うケースがありますよね。平安時代には貴族の間でも「一回忌」ですべて終了という「短期集中葬」が普通だったのですが、それが平安時代末期(いわゆる院政期)くらいから次第に仏事の回数や、行われる期間が増やされていき、『逃げ若』の時代である鎌倉時代末には、「三十三回忌」まで行うケースが見られるようになりました。

これは、祖先の慰霊に熱心だった鎌倉武士たちのニーズが反映された例といえるでしょう。おそらく武士たちは先祖から継承した領地を自分たちの手で管理し、守ることを重視したので、都の貴族たちに比べ先祖の存在を感じやすかったのではないか、と推測されます。

室町時代に取り入れられた禅宗「座棺」

また、『逃げ若』では北条得宗家を裏切った仇敵として描かれる足利尊氏ですが、尊氏とその子孫たちも、現代日本のお弔いのあり方には大きな影響を与えています。というか、現代の葬儀業界の関係者は、足利家に足を向けて眠れないほど、大きな恩があるといってもよいでしょう。

尊氏とその子孫たちは、関東から京都に拠点を写し、室町幕府の将軍を歴任しました。そして、足利将軍家の葬儀を担当するのは、京都にある臨済宗の大寺院の一つである相國寺の僧たちだと決められていたのです。臨済宗は中国に源流を持つ禅宗の一派ですから、足利将軍たちは中国風の葬儀を好み、それで葬送されていたことになりますね。


また、足利尊氏をはじめ、歴代の室町将軍たちは京都・等持院において火葬されました。室町時代の大寺院は自前の火葬場さえ備えており、それが格式が高い寺院の証だったのですが、すべては上流武士たちからの高い信仰と、多くの寄付金を集めていたからこそ可能だったのです。というか、室町時代において、寺院は葬儀のすべての側面をプロデュースし、執り行う葬儀会社としての一面も備えていたのですね。

平安・鎌倉時代では亡くなった人を棺に横たえる「寝棺」が一般的でしたが、中国に影響を受けた禅宗による、新しいタイプの葬儀法が確立した室町時代では、故人が座った姿勢で棺に入れられる「座棺」が通例となりました。「座棺」の伝統は、戦国、江戸、明治……と受け継がれ、日本全国で見れば、50年くらい前までは「寝棺」よりも一般的だった地域も多いのだそうです。

また、足利家の葬儀では「座棺」を「龕(がん)」と呼ばれる中国風の輿で運ぶのが通例となりましたが、当初、こうした葬儀は「唐風(中国風)だ」と一部で批判されたにもかかわらず、14世紀以降になると、天皇家の葬儀でも龕が用いられるようになりました。

現代にも受け継がれている「足利家」の葬儀の習慣

また現在でも、葬儀の際に祭壇の飾りとして使われている「四華花(しかばな)」が用いられ出したのも、足利将軍家の葬儀が最初でしたし、葬列が火葬場の周辺を三回回る風習や、火葬後の収骨に竹の箸を使うといった現在でも一部に残っている風習も、室町時代の足利家の葬儀で行われていたことの「名残り(なごり)」なのです。

豪華なお葬式の魅力に、身分や社会階級をとわず、日本人は伝統的に極めて「弱い」あるいは「弱かった」といえるのです。現在のように、シンプルな葬儀「も」好まれるようになったのは、いわば革命的変化だといってよいかもしれません。

足利家が好んだ豪華で凝った葬儀は、高位の武士たちの間でも模倣されるようになり、15世紀後半になると裕福な農民でさえ真似したがるようになったといわれています。いずれにせよ、戦国時代に日本を訪れたイエズス回宣教師のルイス・フロイスが驚愕するほどに、葬式のために信仰する宗派や教義を日本人が選ぶようになっていった背景には、葬儀のすべてを家族の手で行うのではなく、「葬儀のプロ」に任せるようになったという足利将軍家の葬儀の影響がみられるのでした。

鎌倉と室町は日本史好きの間でも、あまり馴染みがある時代とはいえない気がしますが、こうして「葬儀」というファクターひとつをとってみても、現代との接点が少なくはなく、実に興味深いのですね。

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