「死」は、人間にとって避けようのないものです。
それは現代人である私たちの問題ではなく、はるか以前、私たちの祖先にとっても同じです。
逆に、現代ほど医学が発達しておらず、また自分たちの身を守るための技術も今ほどなかったはるか昔の人々にとって、「死」とはもっと身近なものだったともいえるでしょうね。私たちの祖先はどのようにして、親しい人を見送ってきたのでしょうか?
日本でも縄文時代の遺跡などからは、遺体をそれぞれの流儀で土中に葬る「土葬」が行われていたことが明らかになっています。旧石器時代から、人々は亡くなった仲間や家族を葬り、花をそなえたりする習慣がありました。
しかし、遺体の葬られ方を調べてみると、非常に興味深い事実がわかるのです。
縄文時代でもお葬式のスタイルには流行が
縄文時代の前期から後期にかけてのかなり長い期間、村落があったと考えられている長野県東筑摩郡北村遺跡では約300体もの人骨が出土しています。
時期としては縄文時代後期……その中盤から後半にかけてのものだといわれています。
興味深いことに、この期間の中だけでも、土葬された人は様々な姿勢で葬られており、葬られた人の性別や年齢、そして時期によってトレンドが変化していることがわかります。
つまり、当時からお葬式のスタイルには流行があったということがうかがえるのですね。
それも北村遺跡のように比較的長い時代にかけて、しかも多くの人骨が出土しているケースだから推測できることなのですが……。
北村遺跡の場合ですが、縄文時代後期からは、男性は顔を向かって左、女性は顔を右にむけて葬られるケースが多いようです。
膝を曲げて左右どちらかに倒して葬られるのは、四十代以上の女性。膝を曲げて立てたままで葬られるのは四十代以上の男性によく見られました。当時、彼らが信じていた宗教が影響しているのかもしれませんが、なにせ文字のない時代のこと、残念ながら正確な理由は不明です。
当時の平均年齢は二十代で尽きてしまうほどですから、四十代といえばその2倍ほども生きた長寿の人たちにあたります。顔の向きや足の倒し方については、死者への敬意が読み取れる気が筆者にはします。
弥生時代はステイタスの違いが葬式に影響
さて、弥生時代以降になると、さまざまな理由で共同体の身分差が明確になり、それと共に死者への葬られ方にもステイタスの違いがハッキリと出てきます。そのもっとも豪華版が、歴史の教科書などでもお馴染みの「古墳」ですね。これらについてまた別の機会に詳しくお話ししましょう。
古い時代の様々な「お別れ」の方法について見てきましたが、筆者の考えでは日本人が一番長い間、それも一番親しんできたお葬式は、風葬だったと思います。
風葬というのは、遺体を土葬しない方法。戸外もしくは洞窟の中などに放置し、そのまま「土に還らせる」……という方法ですね。
土葬された時より、環境の影響を大きく受けますから、人骨は残りにくく、文字通り「土に還って」しまいますから証拠は残らないのですが、実は身分の高い為政者層が古墳などを作り、後世にまで自分の存在を語り継がせるための「墓」の概念に目覚めた後も、庶民たちはフツーに風葬で仲間や家族たちを見送りつづけていました。
現代人の目には、遺体を放置しておくなんて、酷いことのように思えるかもしれませんが、実は13世紀、鎌倉時代くらいまでは、すくなくとも庶民の間ではネガティブなこととは思わなかったようです。
ちなみに仏教の伝来は6世紀中盤くらいだと言われます。当初はアマテラスオオミカミを頂点とする、八百万(やおよろず)の神々に日本は支配されているとする伝統的な神道と、仏の教えを重んじる「新興宗教」である仏教とでは、信者が政治的な対立すら引き起こしています。
仏教では葬式はしなかった?!
一方で、平安時代頃から、神道と仏教の両者が融合をはじめます。いわゆる「神仏習合」ですね。やがては仏教の勢力のほうが神道を圧倒するパワーをもちはじめ、中世ともなれば、仏教は日本の実質的な国教のひとつとなっていました。仏教的な価値観に沿って、一般人の生活の隅々までが影響を受ける状態となっていたのです。
現代のわれわれの感覚では、遺体を放置することは法律上の罪であると同時に、バチが当たりそうな行為だと思われます。
宗教的にもお寺やお坊さんが黙っていないような気もしますから、なにもいわれなかったの?と疑問に感じる方もいるでしょう。しかし、本当に何も言われなかったのですね。
思い出してください、もともと仏教とは魂の「輪廻転生」を説く宗教でした。
死んでしまえば、魂の入れ物だった肉体にはもう用はないという発想なのでした。意外にむかしの人のほうがクールなので驚きですね。
そしてさらに仏教にはお釈迦様が、その前世で飢えたトラの前に身を投げ出して自分を犠牲にして亡くなるという亡くなり方をしています。
こういうことで、魂の入れ物だった死者の肉体を風葬にし、動物たちに「捧げる」ことで、死者の魂がより高いステージに早く到達できるように祈る……そんなことまで考えられていたようですよ。
さて……ざっくりと話してきましたが、親しい人の死を悼み、彼らに先立たれた悲しみを残された者たちが乗り越える方法としての「お葬式」は、どの時代でも日本人に重視されてきました。
しかし、われわれが考えている「お葬式」のイメージとは時代によってずいぶんと異なることもわかりました。この連載コラムでは、日本人の死と生のかかわりをこれからも追っていきたいと思います。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
医学に関して・・・
正倉院(奈良時代、聖武天皇の一家の暮らしの記録がのこされてる)などの貯蔵品をみてみると、医薬として扱われていたお香などがすでにあります。
また、平安時代になると、江戸時代くらいまでつかわれていた「医心方」という”中医学に我が国の医者がコメントしてつくった医術書”が成立しています。
ただ、医心方によると、死んだ人の鼻のなかに野菜の茎をつっこんで血が出たら生き返ると書いてあるものもあり、あまり「綺麗」ではない。
……といったこともあり、上流階級は仏教の祈祷に頼ったのかもしれません。
ちなみに、祈祷といえば、医療としての呪術なども奈良時代のころ、正倉院のころには、すでに中国から伝わってきており存在しました。
呪禁道、陰陽道、そして神道的なものより、仏教そのものが強くなってくる平安時代後期以降、密教による呪術が人気となっていきます。
呪禁道は国家レベルで禁止され、陰陽道はだいたい平安時代でトレンド落ち。その後は密教ブームですね。