国立国会図書館の調査では、伝記や人物研究の本の出版数では、西郷隆盛が、戦前・戦後をとわず第一位だったそうです。
一説に、世界中で出版されているイエス・キリストについての本に次ぐほど、西郷についての本は多く出されているらしいのですね(家近良樹『西郷隆盛』)。
西郷隆盛は、文政10(1828)年生まれ、 明治10(1877)年に亡くなった、19世紀の日本の人物です(数え年で享年50歳)。
おそらく出版も日本国内が中心でしょう。
そんな西郷が約2000年前に生まれ、世界中に信者を持ち続けたイエス・キリストと張り合えるくらいの人気者というのは信じがたい真実なのですね。
そんな西郷がどんな風貌だったかについては、彼の写真が残されておらず(教科書に載っているのは、想像で書かれた洋画)、実はよくわかってはいません。
まさに「謎の男」なのです。
かつての仲間に向けられた刃に西郷は…
西郷隆盛の人生は浮き沈みの激しいものでした。
彼が最期を迎えたのは、故郷・鹿児島の城山です。
明治維新の功労者として、一時は新政府の要職に迎えられたものの、深刻な体調不良や同僚との不和もあって、明治天皇の裁可を得ぬまま、鹿児島に帰国しています。
その後、新政府による政治に不満を持つ元・士族たちにかつぎあげられるように、反政府の内戦「西南戦争」を起こすものの、明治10(1877)年9月24日、ついに籠城していた城山で最期の時がやってきます。
新政府が派遣してきた軍隊には、西郷が目をかけていた山縣有朋らも加わっていました。
山縣は、西郷にこれ以上「罪」を重ねることがないように、自決を勧告していました。
かつて仲間だった者に刃を向ける苦しみは、たとえようもなかったと思われます。
また、実際に城山総攻撃開始の前夜、西郷隆盛のために新政府軍の陸軍軍楽隊が葬送曲を演奏した記録すら残されているのでした。
今は敵なのに、ここまで慕われているのですから、西郷、ほんとうに大したものです。
最後の5日間を城山の洞窟に避難していた西郷ですが、覚悟を決め、下山している最中に新政府軍の銃撃を受けます。
下腹部に傷を負った西郷は、「もうこのへんでよか」と同行していた別府晋介に声をかけ、自害の意志を告げ、介錯を依頼します。
こうして約7ヶ月に及ぶ、西南戦争が終わりました。
この遺骸…本当に西郷?!アソコが判定の決め手に!
別府晋介は、この時、西郷の首を部下に命じて隠しています。
西郷自害の知らせを受けた新政府軍が発見できたのは、当初、西郷の身体だけでした。
「顔がない身体だけで、本当にそれが西郷だと判断できるのか」
「西郷は死んでいないのではないか」
……この時、新政府軍、西郷軍の両方が感じた疑問は、その後、しつこくくすぶり続けるのですが、それはまた後述します。
結論として、その首なしの胴体を、西郷の遺骸としたのは、股間の特徴でした。
西郷の検視結果にも、はっきりと「睾丸水腫」の四文字が刻まれているのですね。
要するに西郷が巨大な睾丸の持ち主であることは、敵味方に関係なく知れ渡っていたわけなのです。
沖永良部島で寄生虫フィラリアに股間をやられたというような説明を眼にしますが、睾丸に寄生されてから数年の間に生殖能力は失われてしまうといいます。
西郷の場合は鹿児島に帰ってから数年の間で、逆に妻に子供を産ませているところからも、おそらくは脱腸の類だったのではないか……と筆者には思われます。
さて、こういう理由で西郷の遺体は本物だと判断されたのですが、隠された首はどうなったのでしょう?
西南戦争にさきがけ、佐賀で起きた「佐賀の乱」の主領・後藤新平の首は晒しものになっているため、その辱めを西郷の遺体に加えられたくなかったというのが、西郷の首も隠された理由でした。
しかし西郷らしき首は折田の屋敷(のどこか)から千田登文(せんだのりふみ)という人物の手によって見つかり、それを西郷と面識があった山縣有朋本人が検分、西郷の首だと認めたという程度の情報しか、公表されていなかったのですね。
西郷の首と身体は山縣の尽力によってつなぎ合わされ、浄光明寺跡に埋葬されました。(現在の南洲神社の鳥居あたり)。
その後、明治12(1879)年、浄光明寺跡の仮埋葬墓から、南洲墓地にまで改葬されたといいます。
敵味方を超えた国民的人気ゆえの根強い生存説
しかしそれでも、葬られたのは西郷の遺体ではないという噂は根強く生き残りました。
西郷の首が隠されていた場所は、文献によって微妙に異なるからです。
折田正助という人物の屋敷あたりというのは共通なのですが、『征西戦記稿』では、屋敷の門前、『巨眼南洲』では、屋敷周りの小溝にかけられた石橋の下、『西郷臨末記』では、屋敷のヤブの中と違いがあったのに、真相がなぜか明らかにされなかったからです。
また、こういう謎めいた経緯ゆえに「城山で死んだのは、7人いた西郷の替え玉の1人にすぎず、城山陥落の数日前に、西郷本人は現地を脱出した」という手合の伝説が、明治時代の日本中で語られつづけたわけです。
「西郷はロシアの軍艦でウラジオストクに向い、ロシアの兵を鍛えている。腐った明治新政府を潰すためだ」
……などという風説が、西南戦争終結から10数年もたった『鹿児島新聞』に載せられ、明治24(1891)年ごろには東京の大新聞にもその手の「噂」が、堂々と掲載されるようになったのです。
「西郷どん、露国艦で帰国?(『東京朝日』明治24年4月1日)」「西郷隆盛、この通り還って来る(『国民新聞』明治24年4月3日)」……などなど。
なぜか、敵味方を超えて国民的人気を得てしまっていた西郷隆盛は、反政府のヒーローとして祭り上げられてしまったのですね。
西郷隆盛はもちろん死人ですから、戻ってくるはずがありません。
近年、南洲墓地に眠る遺体は、本当に西郷のものだったということを裏付ける詳細な証言が発見されています。
西郷の首を発見した本人の千田登文が、大正末~昭和初期頃、陸軍の上司のために書いて提出した文書です。
「(西郷の首の)探索ヲナシタルニ、果シテ門脇ノ小溝ニ埋メアルヲ発見シ」……などとあり、見つかった首を千田は山縣有朋のもとに運んでいったとか。
これらはすべて、今から約150年ほど前の出来事です。明治とは、近いようでいて遠い時代なのだと思わせられますね。