1793年10月16日、マリー・アントワネットはギロチンによって処刑されました。
朝から荷馬車に乗せられ、パリの街を1時間以上も引き回された後の処刑でした。
人生最後の日、マリー・アントワネットは首を切り落としやすいように髪の毛を短く刈られていました。
そして白い服に黒い絹の靴下を履き、手作りの靴下留めを身に着けていたそうです。
紫の絹の靴だけが、かつて彼女がヴェルサイユで過ごした華やかな時代の思い出の品でした。
公開処刑は当時の娯楽だった
嘆かわしいことですが、処刑は娯楽のすくなかった当時、民衆お気に入りのスペクタクルのようなものでした。
かつては雲の上の存在だった王妃が零落し、今や首をはねられようとしている……「他人の不幸は蜜の味」などといいますが、猛り狂った民衆から侮辱の言葉を嵐のように受けても、アントワネットは最後まで毅然とした態度を崩しませんでした。
しかし体調が悪かったため、断頭台へ登る階段でよろめき、処刑人の足を踏んでしまっています。
この時彼女は「ごめんなさい、わざとではないのよ」と、自分を殺そうとしている男にむかって言いました。
そしてこれが、アントワネットの最後の言葉となってしまったのです。
故国オーストリアからフランスに16歳で嫁いでから約21年が過ぎ、彼女も37歳になっていました。
処刑人一族「サンソン家」
フランスでは革命期以前から、特定の一族の男性が処刑人の職を国家から委託され、あらゆる処刑を行っていました。
サンソン家はフランス各地にいた処刑人の中でもっとも有力な人々でした。
サンソン家の当主であり、マリー・アントワネットの処刑人を勤めていたのがシャルル=アンリ・サンソンという人物です。
革命時代の前はフランス王家だったブルボン家に仕え、マリー・アントワネットやルイ16世のことを無条件に尊敬していたのです……。
The execution of Queen Marie Antoinette of France, 1794 / Isidore Stanislas Helman (1743-1806)
フランス革命時代、一説に数万人以上の人がギロチンによって処刑されていきました。
シャルル=アンリ・サンソンが監督した処刑の現場だけでこの時期、約3000というから恐ろしい。
ギロチンはフランス革命勃発後に、いわゆる革命政府の強い要望で生まれた「人道的処刑装置」といわれてきました。
一瞬にして処刑囚の首を切り落とすことで、彼らに無駄な苦しみを与えないため、人道的とされる一方、実際のところは大量処刑を「時短」で行うためのニーズから作られた機械といってもよいでしょう。
スイッチひとつで、高いところに吊るされた刃が落ちてきて、人の首がポーンと胴体から切り落とされてしまうのですが、あまりに多くの人の生命を短期間で奪わねばならないため、処刑人の精神の変調が危惧されたほどでした。
処刑人は殺人許可証を、いわば国家権力から与えられた特殊な人間です。
しかし「人を殺さねばならない」という義務が健全な人間の心理に与える重圧は想像以上のものですからね。
革命政府から長年仕えたブルボン家の処刑を厳命
革命期のシャルル=アンリ・サンソンは、多くの場合、ギロチンのスイッチを押すことは助手に任せ、普通は処刑を監督しているだけでした。
しかし、マリー・アントワネットやその夫で、フランス国王だったルイ16世の処刑にはシャルル=アンリみずからギロチンのスイッチを押すことが革命政府から厳命されていました。
革命前のサンソン家の人々は代々、王家に仕え、処刑を秩序の維持を目的に行い続けました。
報酬は処刑にかかった必要経費を含め、王家から処刑人に支払われたのです。
処刑人には高い収入が約束されていた時代もありましたが、革命前には王家の財政は破綻しており、処刑人に十分な報酬が支払われませんでした。
フランス銀行券「リーブル」
ルイ16世は総額13万6千リーブル(現在の貨幣価値で13億6千万円!!)もの借金がサンソン家に対してありました。
要するにフランス王家による超多額の給料未払いと踏み倒しが処刑人に対しても起きていたのですが、それでもシャルル=アンリはフランス王家の人々に敬愛の念をいだき続けました。
そんなシャルル=アンリ・サンソンに、フランス国王夫妻の処刑を直々に行うよう、革命政府からの命は下っていたのです。
1791年1月のルイ16世の処刑はなんとか行えたシャルル=アンリ・サンソンですが、マリー・アントワネットの処刑だけはなんとしても行えず、そんな父になりかわって彼の息子のアンリがギロチンのボタンを押したというのですから悲劇というほかありません。
葬儀禁止!マリー・アントワネットの遺体はいずこへ?
Eric Pouhier [CC BY-SA 2.5 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5)], ウィキメディア・コモンズより
さて、処刑されたマリー・アントワネットの遺体はどうなってしまったのでしょうか。
胴体と首はマドレーヌ墓地に運ばれましたが、処刑囚に葬儀がわりのミサを行うことは、革命政府から禁止されていました。
このため、シャルル・アンリ・サンソンは王妃のためのミサを隠れて行わせています。
また、アントワネットの遺体は半月もの間、見せしめのため、墓地の草むらに放置されていました。
彼女の首から型取りしたという触れ込みのデスマスク(?)がロンドンのマダム・タッソーの蝋人形館には展示されていますが、日本でいうお化け屋敷の生首状態で、それは凄惨なことになっているんですね。
傷んでいく彼女の遺体を見かねて土中に葬らせたのもシャルル・アンリ・サンソンだったといわれています。
1814年、ナポレオンが没落し、フランスに王政が復活します。
その翌年、マドレーヌ墓地のマリー・アントワネットの墓は掘り起こされ、遺骨はフランス王家の墓所だったサン・ドニ聖堂に改葬されることになります。
何人かがごっちゃまぜに葬られた墓でしたが、それがアントワネットの遺骨だと人々が確認できたのは、彼女が幽閉中に手作りした靴下留ゆえでした。