「光源氏(12歳)」と左大臣家の令嬢「葵上(16歳)」の結婚生活
あまり語られることがないかもしれませんが、『源氏物語』は「死の物語」といえるほど、「死」の影が全体に立ち込めている小説です。
その冒頭から桐壺帝との身分違いの恋の末、桐壺女御が病死し、彼女の忘れ形見として、光る君つまり後の光源氏が帝のもとに残されるという設定になっています。
光源氏はすくすくと成長し、輝くばかりの美しさでしたが、強い光の傍ほど暗い影が生じるように、源氏の人生にも「死」の影は色濃くつきまとうのでした。
光源氏には彼が12歳のときに結婚した、4歳年上で、プライドが高く、親しみやすいとはいえないお嬢様の妻がいました。左大臣家の令嬢だった彼女は、「葵上(あおいのうえ)」の名前で一般的には知られています。この名は後世の『源氏』ファンが付けた仮の名にすぎず、作中において彼女が源氏から「葵上」と呼ばれるようなことはありません。
現在では高校一年生に相当する16歳の花嫁の目から、小学6年生くらいの12歳の新郎の光源氏はいかに彼が輝くような美少年であったところで、やはり頼りなく、夫として慕うには幼く見えてしまったのでしょう。葵上には気恥ずかしさもあったのかもしれませんが、光源氏には、いつまでたっても打ち解けた様子を見せてくれようとしない妻との時間はつまらなく、いつしか妻以外に、心ときめく女性との出会いを家の外に求めるようになってしまいます。
この時、思春期の少女ゆえのつっけんどんな物言いの葵上とはまったく違う、大人の魅力で満ちあふれた淑女に光源氏は引き寄せられてしまいます。これが「六条御息所」と呼ばれる女性です。
当時、20代後半だった六条御息所ですが、彼女はすでに夫であった皇太子を亡くした未亡人で、当時の京都では別荘地だった六条界隈に屋敷を構え、そこは彼女の美貌と教養、そして人柄に惹かれた人々が集うサロンのような場所になっていたわけです。
正妻「葵上」と愛人「六条御息女」…牛車をめぐるドロドロのバトル
当初、訪問客の一人にすぎなかったはずの光源氏と、誇り高い六条御息所の関係が深まったのは、何の運命のいたずらがあったからなのでしょう。
『源氏』には残念ながら、その光景を記した箇所はありませんが、六条御息所との関係の中で、光源氏は少年から青年へ、そして稀代の色男として育っていったのです。
しかし、光源氏の成長ぶりは、おそらく六条御息所の想定以上で、その結果、彼女は自分が育てた雛のような源氏が、いつ自分の手元から羽ばたいて去って行ってしまうかを恐れるようになっていた……筆者にはそのよううに想像されてなりません。
成長したのは光源氏だけではありませんでした。
年下の夫が、自分以外の女にうつつを抜かしていると認識した葵上の心には、本当に少女だったころには知らなかった「嫉妬」という感情が生まれました。
当時の京都の年中行事でもっとも重要な祭事だった葵祭で、お忍びで来ていた六条御息所の牛車を人々の目の前で徹底的に攻撃させ、行列がよく見える場所を奪い取った葵上は、自分こそが天下の光源氏の「正妻」であると振る舞い、夫の「愛人」にすぎない六条御息所を侮辱するという傲慢な行動を取りました。
そしてその結果、光源氏の子を妊娠中だった葵上は、そういう事情もあって六条御息所から猛烈に憎まれ、恨まれ、彼女の生霊に何度も襲われて病みおとろえ、床に伏すようになります。病中の葵上からは刺々しさが消え、光源氏に素直な顔を見せることがあり、源氏は彼女の魅力にはじめて気づくのでした。
しかし、やっとの思いで、後に夕霧となる男児を出産しおえた葵上は、再び六条御息所の生霊に襲われ、陰暦8月の中旬(現在の9月末に相当)に亡くなってしまったのです。
死に際のリアルな描写と源氏の悔恨
火葬に先駆け、蘇生を願う祈りが僧によって行われたのですが、効果はなく、しかもそれが暑さの残る季節に数日もの長さに及んだため、葵上の顔に浮かぶ死相はよりハッキリとして、容貌が「損なわれたまふ」様(さま)がはっきりした……と、紫式部は残酷なまでにリアルに記しています。
光源氏は彼女の火葬が終わった後も、腐敗していく姿を晒さざるを得なかった葵上の鎮魂を祈って、熱心に読経しはじめたのでした。彼の姿は、本職の僧侶以上に荘厳だったそうです。
また、源氏は、亡き妻との思い出を歌に詠みました。
「亡き魂(たま)ぞ いとど悲しき 寝し床の あくがれがたき 心ならひに」。
言葉を補って直訳すると、「この世を去ってしまった葵上の魂がますます悲しく思われる。彼女と共に寝た床を離れがたくなってしまう」となりますが、実際にはそこまで仲睦まじい日々が光源氏と葵上の夫婦には、どれくらいあったのか、というところでしょう。少なくとも、『源氏』の本文では両者の仲睦まじい様子は語られていません。
しかし、光源氏は本来ならあり得たかもしれない、葵上との愛情の日々を歌という形で表現することで、それをほとんど体験せずに亡くなってしまった葵上の無念を晴らしてやろうとしているようです。
『万葉集』の時代、柿本人麻呂、山上憶良、大伴旅人などが妻の死を悲しむ気持ちを歌に詠み、「泣血哀働歌(きゅうけつあいどうか)」と呼ばれるジャンルを打ち立てているのですが、光源氏による葵上追悼歌の数々も、そうした伝統に連なるものではないかと考える研究者もいます。
亡き人との思い出を、もしくはそれを理想化してでも歌に詠む行為自体が弔いの一貫であり、葬儀の延長線上にあったということは、現代人には興味深く思えます。
葵上の死の前後については、光源氏のような理想化されたプリンスにも、後悔するという一面があったことを教えてくれるエピソードでもありますね。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
「泣血哀働歌」とは、文字どおり、血の涙を流し、哀しみに突き動かされて歩き回るしかない者が詠んだ歌という意味ですね。