「革命児」として、描かれることが近年は多い織田信長。
その実像はさておき、信長のユニークさは葬儀関係にもいかんなく発揮されております。
なぜ「おおうつけ」と呼ばれたのか?
『信長公記』/陽明文庫所蔵(wikimedia commonsより)
若い頃は「大うつ気(け)」、大馬鹿者だと周囲からひそかに呼ばれていた信長ですが、その理由のひとつが、奇抜すぎた衣服の好みでした。
『信長公記』には「帷子(かたびら)の袖を外し、半袴」「火打ち石の入った袋などを腰あたりにいっぱいぶらさげている」にはじまり、「髪は、きちんと結わず、(根本をヒモなどで留めただけの)茶筅髷だった」というような記述があふれています。
人目もはばからず、柿や瓜をほおばりながら町中を歩き、友人に寄りかかって、あるいは彼らの肩にぶらさがるようにして歩いていたともいわれます。
現在でいうヤンキー、輩(やから)っぽい若者だったのですね。
身分のある人が人前で何かをパクパクと食べたりする様を見せることは下品とされていました。
そして自分の着たい服を着たい風にまとい、やりたい放題に生きている信長は「大馬鹿者」にしか見えなかったというわけです。
守り役は切腹…父親の葬式での無礼な振る舞い
信長が17歳の時のこと、父の信秀が亡くなりました。
すると信長はやはり例のような格好で葬式に現れ、お焼香用の抹香をつかんで仏前に投げつけて帰ってしまったというのです。
このあまりの有様に信長の守り役の家臣・平手政秀は、切腹して果ててしまったそうな。
これらは信憑性の高い信長の伝記とされる『信長公記』にもしっかり書かれているので、事実なのでしょう。
きちんとした葬儀を行わねばならないという武家社会の掟のようなものがうかがえますね。
公家と武家・・葬儀傾向の違い
中世以降、公家と武家では葬儀に対する感覚は大いに異なったようです。
一般的に葬儀において公家は薄葬、武家は非常にあれこれしたがる傾向がありました。
中世以降の公家の場合、経済的に弱体化していたこともあるかもしれませんが、死者が出れば、北枕にして寝かせ、自邸に僧を呼んで読経させたり枕元の火を消さないように努めたり。
僧に読経させたあとは夜間に牛車でお棺を運び、火葬にしたのち石で卒塔婆を立てる程度の葬儀しか行いませんでした。
一方、とくに身分の高い武士の場合、遺体をまずは自邸の殯所(もがりしょ)にうつして西向きに寝かせたのちは、位牌、ロウソク、香華といったお金のかかる品々を次々と枕元に運んできたり、葬儀は寺で行わせたり……その後は大々的な行列をくんで火葬場までお棺を運ぶことが「通例」でした。
火葬後は骨の一部を高野山に分骨させたり、7日ごとの仏事を営むなど仏事を絶やさない……というように、葬儀に情熱を傾けていたことがわかるのです(芳賀登『葬儀の歴史』)。
信長の「おおうつけ」は演技だった?
そんな風潮の中、父親の葬儀においても馬鹿げた振る舞いを見せた信長にはたしかに一計あったのかもしれません。
当時、信長はまだ17歳の若造です。彼は嫡男とはいえ、戦国時代の武家はシビアな実力社会でした。
また織田家内にも嫡男の信長より、彼の弟を公然と次期当主として支持する者たちがいました。
ライバルたちに「暗殺するまでもない馬鹿者」であると誤解させることで、身の安全をまもろうとする戦略を信長は取ったのかもしれませんね。
信長が実はしっかり者かもしれないことを家臣たちが知り、驚かされる事件がこの後に起きています。
信長が彼の義父(=妻の父親)になる名武将・斎藤道三と面会したのですが、その時には立派な礼装に身を包んで現れ、周囲をびっくりさせているのです。
こうして信長の地位は織田家の中で固まっていったとテレビドラマや映画では説明されるのですが……実際のところ、髪型・服装はともかく、信長はこの時、自分からまったくしゃべることができませんでした。
信長の口癖の一つが「であるか」だったのは有名ですが、これは「そうだったの?」というような意味。
誰かの言葉に疑問系で返しているので、会話自体は続けたいという意思はあるようですが、会話を自分で広げることがどうやら、できていないと分析できるのです。
のちに義父となる斎藤道三との最初の会話でも、信長はほとんど(すくなくとも自分からは)喋らなかったらしく、その場では「こちらが斎藤道三様です」と紹介した家臣にも、例のごとく「であるか」と発言したとしか記録されていません(『信長公記』)。
斎藤道三のほうが妙に気を利かせ、信長に湯漬けなどを勧めたという記録があるのには、なんだか笑ってしまいます。
このように、とても個性的すぎる信長なのですが、例の奇抜な服装趣味も斎藤道三と面会後におさまったわけではありませんでした。
奇抜な衣装を担当させられた光秀の憂鬱
信長は「本能寺の変」で明智光秀に討たれて亡くなる約1年前の天正9(1581)年の、左義長といわれる正月の火祭りの儀式に、「黒き南蛮傘をめし、御眉をめされ(=眉毛を剃り落とし)、赤き色のほうこう(マント)をめされ」などときわめて奇抜な姿であらわれました。
当時、信長は48歳。
現代の年齢感覚では60歳くらいに相当します。
それでも事あるごとに、この手の仮装めいた格好をしたがる信長の衣装を担当していた一人が、ほかならぬ明智光秀だったのです。
常識人とされる明智光秀にとって、自分とはまったくことなる趣味嗜好の信長を満足させる衣服を誂えるため、あれこれ考えつづけることはものすごいストレスであり、もしかしたらそれが「本能寺の変」のひとつの原因だったといえるかもしれない……などということを筆者はチラチラと考えてしまうのでした。
さて、信長が「本能寺の変」で討たれたのが、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝のこと。
焼け跡からは信長の遺体は見つからずじまいでした。
それでも信長の葬儀は行われなければなりません。どうやったのか……というと、次回に続きます。