木曽義仲
木曾義仲像(徳音寺所蔵)
木曽義仲 「所々(ところどころ)で討たれんよりも、ひと所でこそ討ち死にをもせめ」
通称・木曽義仲は、本当は源義仲といって源頼朝・義経兄弟の従兄弟にあたる人物です。
血筋からいえば高貴なのですが、当時の京の都人の感覚では「ど田舎」木曽地方の山中で育った義仲は、「力がすべて」の乱暴者。
横暴な態度で都中の嫌われ者の平家を戦で討ち破った後、京の都にやってきますが、歓迎されるどころか忌み嫌われました。
乱暴狼藉のオンパレード、さらには天皇の後継者問題にまでクビをつっこみたがったので、「これはアカン」と当時の朝廷のドン・後白河法皇によって、鎌倉の源頼朝にSOSが送られたというわけです。
源義経像(中尊寺所蔵)
頼朝は弟・義経らに木曽義仲追討軍を結成させ、戦の天才・義経によって、義仲の立場はあっという間に絶体絶命となります。
このとき義仲は、深く信頼していた乳兄弟(ちきょうだい、要するに義仲の乳母の実子)・今井兼平(いまいかねひら)に「別れてから死ぬくらいなら、ここで一緒に戦って死のう」と持ちかけたのでした。
ちなみにこのとき、義仲は兼平の妹で、自分の愛人でもあった巴御前という女性武者には「女は逃げて生き延びろ」と命令しているのに、彼女の兄の兼平には「一緒に死のう」というわけですね。
男同士の絆の硬さに、ともに戦ってきたはずの巴御前はまったく切り込むことすらできなかった……という高校の授業でフツーに教えるにはあまりにBL色の強い「名シーン」でした。
ちなみに木曽義仲は判断が遅れたおかげで、雑兵の矢で頭を射られて死亡。兼平もその場で壮絶な自害を遂げる「幕引き」となりました。
寿永三年1月20日のことでした。享年31歳。
平知盛
赤間神宮所蔵 平知盛像
平知盛「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」
「平家物語」のドラマのクライマックスである壇ノ浦の合戦。
劣勢の中でも、「いくさは今日ぞかぎり。者ども少しも退く心あるべからず(今日で戦の勝敗は決する。みんな絶対に持ち場を守るのだ)」と叫ぶだけで、兵の士気をあげることができた平知盛は、平家一門では「新中納言」として慕われる立場にいました。
しかしいかんせん運命は平家に味方せず、わずか数時間後には敗色は歴然としてしまっていたのです。
『源平合戦図屏風』/赤間神宮所蔵
平知盛は平家一門の人々が次々と海に飛び込んでいく中、彼らの最期を見届けました。
そして「見届けるべきものはすべて見届けた。今から後を追う」と言って、乳兄弟の伊賀家永(いがいえなが)を呼んで、二人で重たい鎧を二重に着込み、二人、手を組んで海に飛び込んだのでした。享年34歳。
二人の最期を見た平家の残党たちは次々と海に身を躍らせ、彼らが持っていた平家の赤旗や、のぼりだけが海面に浮かんでいる様は、紅葉をちらした竜田川の水面のようだった……と『平家物語』にはあります。
二位尼(平時子)
『天子摂関御影』の清盛肖像(南北朝時代)
二位尼(平時子)「浪の下にも都のさぶろうぞ」
『平家物語』は、平時子と平清盛の若き日々をまったく描いていません。
『平家物語』がはじまった時点で、平清盛はすでにこの世の権力を手にし、言動は傲慢、まさに「もののけ」のような状態でした。
・なぜ平時子が彼にひかれ、夫婦になろうとしたか?
・なぜその後も別れようとしなかったか?
・仏罰を受けたかのような高熱にうなされて夫が死んだのちも、平家一門の中心として平時子が活動できた原動力は?
……時子という女性の内面を知る歴史的な事実は、あまり残されていないのが残念です。
ドラマ『平清盛』では深田恭子が可憐に演じていましたが、史実の時子は常日頃から肝の座ったゴッドマザータイプの女性だったと思わせられるのは、彼女の最期からも察せられます。
時子は自分の孫にあたる安徳天皇を連れ、壇ノ浦の合戦に加わっていました。
おびえていた安徳天皇ですが、すべてを悟り、達観したのが「波の下にも都はございます」という時子の言葉でした。
安徳天皇のそばには、彼が正当な皇位継承者という証となる「三種の神器」がありました。
時子は、安徳天皇と三種の神器を抱きかかえ、海に飛び込んでしまったのです。享年60歳。
このとき、彼らの生命だけでなく三種の神器も海中に失われましたが、八咫鏡は浜辺に流れ着き、八尺瓊勾玉は箱ごと浮かび上がり、浮かんでこなかった天叢雲剣は儀式用のレプリカで、本物は伊勢神宮の神庫にあった……という顛末がついています。
平家と共に非業の死を遂げた安徳天皇には、生存説が唱えられつづけました。
近いところでいうとアニメにもなった『アンゴルモア 元寇合戦記』では、壇ノ浦でなんとか生き残り、対馬列島にわたった超高齢の安徳天皇(しかも声は石田彰)が登場、驚かされた記憶があります。