伊達政宗が亡くなったのは、寛永13年5月24日(1636年6月27日)のこと。数えで69歳のときでした。時すでに三代将軍・徳川家光の治世です。
晩年になっても政宗は、自分の小姓の木村宇右衛門に「関東に進出しようとしていたのに、豊臣秀吉が関東を平定してしまって残念であった」と語ったとされています(『伊達政宗言行録』)。
ただし実際のところ、本当にそうしたことを彼が考えていたかどうかはよくわかりません。
「政宗の野望」説については、先程の『伊達政宗言行録』と、親族・最上義光(もがみよしあき)への手紙で「このまま打って出れば、東北から関東を手に入れることもたやすい」というようなことを言ってのけていたことを根拠としています。
しかし残念ながら、具体的な行動に出ていないことも若き日の政宗には多く、「本気の野望表明だったかには疑問が残る」というのが史学的な分析となるでしょうか。
実際のところ、例の「関東も手に入れられる」との手紙もわずか18歳で家督相続した政宗が、最初の戦に圧勝した時の高揚感のうちに書いてしまったものです。
たしかに晩年まで、仙台の自分の隠居所だった若林城(※現在、宮城刑務所)を要塞としても使えるように作らせるなど、そこはかとない野望が彼の心の中からなくなることはなかったようですが……。
当時の武将たちにはなかった正宗の稀有な才能
政宗は非常に筆まめで、豊臣秀吉にならぶ手紙の名手として知られていました。
「手紙の名手?」と思われるかもしれませんが、自分で自分の気持ちを文字にして書きつける能力は現代人ならともかく、当時の武将たちには稀有な才能で、大半の武将たちが自分の言葉を文章化して紙に書きつける右筆(ゆうひつ)という専門職をやとっていたくらいです。
それほど政宗の言語コミュニケーション能力は非常に高く、ふだんから他人が自分にもとめる「何か」を瞬時に汲み取り、それを言葉にして表現していたのかもしれません。
それが後世に「政宗の野望」として受け取られる発言につながった……というように筆者は考えています。
さて、伊達政宗は家臣たちからも愛され、彼の死が近づいてくると殉死希望者が大勢名乗りをあげました。
ちなみに江戸時代の殉死は許可制です。
そもそも戦国時代には、主君が亡くなった際の殉死者はほぼいませんでした。
戦国時代において家臣たちは家の財産であり、それこそ戦でどんどん減ってしまうものでしたから、わざわざ当主に殉死させるのはナンセンスという考えが強かったのです。
ですから、徳川家康に殉死した家臣はゼロです。
しかし家康の子孫たちが代々将軍として君臨する幕府が絶対的な権威となり、戦のない太平の世を実現した江戸時代、武士たちが自分のアイデンティティを求め、それを発揮する数少ない機会が「殉死」だったのです。
主君への愛と忠義を、自分の命をかけて証明しうる場ですからね……。
殉死願いを出された政宗は少しは止めるものの、マンザラでもない様子で許可していったのだそうな。政宗の埋葬時には15名ほどの武士たちが殉死を遂げました。
徳川家光の使者が死期を早めた?
さて、政宗が亡くなった寛永13(1636)年は、故・徳川家康の二十一回忌にあたっていたため、彼は律儀にも初夏の日光・東照宮を訪れていました。
体調がすぐれなかった政宗ですが、家康の眠る奥院に向かう急な石段で足をすべらせ、転倒しています。4月25日のことでした。
5月1日には江戸城で家光に面会しますが、これを最後に江戸藩邸で政宗は寝付いてしまいます。
政宗を気遣う家光の使者が一日二回も送られてくるのですが、その度に衣服をあらためて着座して迎えたこともわざわいし、政宗の病状は悪化の一途をたどりました。
それまでは部屋の中にせよ歩いたりしていたようですが、家光が使者の派遣を自粛決定するころにはもうかなり悪くなってしまっていたようです。
21日には家光みずからが政宗の見舞いに訪れますが、腹部を末期ガンに冒されていた政宗はウェストが「三尺八寸五分」、つまり146.3センチにも膨張しており、顔にも疲労の色を隠せない状態になっていました。
見舞いの客は大勢なのに、彼の妻や娘たちはどれだけ願っても、面会を許されませんでした。
病み衰えた自分の姿を彼女たちに見せたくないというのが政宗の最後の意思だったのです。
余談ですが、おのれのビジュアルにこだわるダンディな彼の姿が「伊達者」の語源になったという都市伝説がありますね。
しかし、政宗の生前からすでに「伊達者」という言葉は使用されていたようです。
さて23日、ついに死を悟った政宗は自室を清掃させ、夜には沐浴で身を清め、普段からしていたように、衣服と身なりを自らの手で整えたうえで横になりました。
何度か目を覚まし「今日は夜が長く感じられる。畳の上で死ねるとは思わなかった」とのつぶやきを残し、24日の早朝に亡くなったそうです。
政宗の遺体には大名の正装である束帯が着せられ、防腐剤をつめた棺の中に座るように収められました。
伊達家に伝わる独特の葬儀手順
663highland [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html)], ウィキメディア・コモンズより
その夜のうちに政宗の遺体は輿に載せられて江戸を出立、仙台に向いました。
政宗には友人が多く、仙台に向かう彼の最後の旅路では各地の大名たちが集まり、焼香したといいます。
また、家光も政宗の死を深く嘆き、江戸では7日間にわたって歌舞音曲が禁止されました。
仙台に到着した政宗の遺体は石棺に収められ、6月4日、経ヶ峰に埋葬されました。
この時に作られたのが後に政宗の墓所として有名になる瑞鳳殿の原点です。
さらにここからが独特なのですが、18世紀くらいまでの伊達家にはさらに特別な葬儀の手順がありました。
故人の遺体は土葬にした後、空っぽの木棺をあらためて原野で焼くのです。
その灰を銅器におさめて土中に埋めて「灰塚」なるものを作り、さらに土塁をその周囲に巡らせる……ということをしました。
政宗の場合、棺を焼いているときに竜巻のような現象が巻き起こり、その嵐が西に向かって去っていくと青空が戻ってきたため、人々は「天も(政宗の死を)あわれみたもうている」と手を合わせて泣いたそうです(『伊達政宗卿伝記史料』)。
これが「最後の戦国武将」伊達政宗の死でした。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
1974(昭和49)年、瑞鳳殿が再建されることになり、政宗の墓の発掘調査もこの時、行われています。
お棺には防腐剤として石灰(牡蠣殻など)がギッシリ詰められていたことが判明し、それによって彼の遺骨の保存状況が良かったとされます。
また、この調査では、長身だといわれてきた政宗の背丈が160センチほどだったと判明しました。
戦国時代の成人男性の平均身長も160センチほどですが、政宗は69歳という当時ではかなりの高齢で亡くなっています。
この頃、日本人の平均寿命は短く、身分によって差はあるものの30~40歳代に達せない程度でした。ですから、若い頃はもう少し背が高かったといえたかもしれませんね。
それ以上に注目されたのは、政宗は老年期になってもなお背中や足腰を中心に、筋肉量がかなりありました。
そういう意味でも、また本人のカリスマ性も加え、実際より「大きく見えた」という伝承にウソはないと思われます。