近藤勇の墓のある場所 | 埋葬部位(著者推定) | |
福島県会津若松市 | 天寧寺 | 首 |
東京都荒川区 | 円通寺 | |
愛知県岡崎市 | 法蔵寺 | |
東京都北区 | 寿徳寺の境外墓地 | 胴体 |
東京都三鷹市 | 龍源寺 |
などなど。
そして、胴体の在り処は、東京都北区の寿徳寺、もしくは三鷹市の龍源寺であると筆者は推察しています(詳細は後述)。
そして首の在り処が会津の天寧寺だとすれば、残る「円通寺」と「法蔵寺」には正確には何が祀られているのでしょうか?
近藤勇の「首」の在り処に関するおさらい
東京都荒川区・円通寺にあるのは、上野で新政府軍と激突、大勢の犠牲者を出した彰義隊の人々のお墓です。
さらに、新選組「も」慰霊している「死節之墓」で、その墓石に近藤勇の名も刻まれているということですね。
記念碑であることは事実ですが、遺体が眠っているお墓というわけではなさそうです。
また、愛知県岡崎市・法蔵寺の近藤勇の首塚については、台座に土方歳三などの名前が刻んであることや、お寺の関係者が京都から近藤の首を持ち帰った逸話があることから、該当する石碑が「近藤の首塚」だといわれてきました。
ただ、1959年(昭和34年)9月の「伊勢湾台風」の被害を受け、塚が半壊してしまった時、そこからは人骨の類ではなく「守り刀」が見つかったというのです。
もともと、新政府軍との戦で亡くなった方々(新選組も含む)の慰霊碑として、当地に「刀塚」が作られており、それがいつしか「近藤勇の首塚」「近藤の墓」と認識されるにいたったのかな、と筆者には思われます。文字数の都合で今回は首のお話はこれくらいで終えましょうか。
ここからは近藤勇の胴体の在り処をさぐっていきましょう。
今回検証するのは、近藤勇の遺体埋葬地としてツートップである
東京都北区 | 寿徳寺の境外墓地 |
東京都三鷹市 | 龍源寺 |
上記2つです。
そして興味深いことに、昭和時代の発掘調査で、その双方から「それらしき」人骨が発見された記録もあるのでした。
近藤勇が板橋で刑死した、慶応4年(1868年)4月11日にまで、お話を戻しましょう。
近藤勇の処刑を見守った中に、親族の男性・近藤勇五郎という青年がいました。ちなみに彼は後に近藤勇の娘と結婚し、近藤家を継いでいます。
処刑を見守った近藤勇五郎が、遺体を近藤家の菩提寺である三鷹市・龍源寺まで持ち帰ったのであれば、近藤の遺体が眠るのは龍源寺であろう……と考えるかもしれませんが、そんなに事態は単純ではありません。
近藤勇五郎は、近藤の刑死を見届けた後、板橋から約20キロを徒歩で移動、武州・上石原村(現在の調布市・野水)の親戚に報告に向っています。
近藤勇の首の処遇については、板橋でさらし首になったかどうかは不明ながら(晒されたところで、ごく短時間だけだったと思われる)、京都にアルコール漬けにされて運ばれていきました。
そして、胴体は板橋の地に「とりあえず」土葬されてしまったのでした。
一方、勇五郎は親戚を数名連れて、地元の村から板橋に戻ってきます。すでに処刑者の遺体はすべて土葬済みでした。
しかし、近藤の遺体を近藤家の菩提寺である三鷹の龍源寺に葬りたいという願望がある勇五郎は金を渡し、板橋の住民を買収しました。
埋葬された遺体を掘り起こし、首ナシの近藤の遺体を輿に乗せ、そのまま三鷹まで徒歩移動していったというのです……。
想像するだけでもなかなかシュールでホラーな光景ですが、この時、近藤勇五郎は三鷹までは直行せず、現在のJR板橋駅近くの刑場から8キロ弱ほど南下、現在の中野坂上駅と西新宿五丁目駅(都営大江戸線)の間にある成願寺に立ち寄ったというのです。
[板橋刑場]→[調布/野水(親戚招集)]→[板橋(遺体掘り起こし)]→[成願寺(中野坂上)]→[龍源寺(三鷹)]
地理院タイルに近藤勇五郎の徒歩移動経路を追記して掲載
これは寺伝などには残っているのですが、成願寺に立ち寄ったという逸話を、勇五郎はなぜか小説家・子母澤寛に伝えなかったようです。あるいは子母澤寛が原稿に採用しなかっただけかもしれませんが。
それにしても、なぜ勇五郎は中野の成願寺に「立ち寄らねばならなかった」のでしょうか。そこには彼の“迷い”があったと思われます。近藤勇はスリの常習犯だった男と同日に処刑されています。そして、両者の遺体は同じ場所に埋葬されてしまったようなのですね。
近藤勇の身長・体重についての正確な数値はわかっていませんが、「中肉中背」とする証言があります。幕末日本の成人男性の平均身長は160センチ程度ですから、おそらく160センチ60キロ程度だったのではないでしょうか。当時の日本では非常にありふれた数値といえます。
読者のご想像どおり、近藤勇五郎は、自分が持ち帰ろうとしている遺体は、「もしかしたら、スリかもしれない」という疑念が抜けなかったのでしょう。
そして、中野の成願寺には近藤勇の妻子が避難して住んでいたことがわかっています。
幕府が崩壊すれば、佐幕派(=幕府を守ろうとする立場)の新選組隊長・近藤勇の妻子は迫害を受けるかもしれませんからね。
なぜ、成願寺が選ばれていたかについては、よくわからないのですが、ともかく、そこで勇五郎は近藤の妻・つねに遺体を見せ、妻の目による「これぞ近藤勇」という「お墨付き」を得ようとしたのではないかと推察されます。
武士の妻として覚悟はしていたでしょうが、夫の首なし死体の“検分”は、かなりショッキングな経験であったと想像されますが……。
龍源寺から発掘された骨折後のある足の骨
また、江戸城開城にまつわるあれこれで、人心が乱れ、(旧)幕府の役人もそれどころではなかったにせよ、よく見咎められることもないまま、首なしの遺体を板橋から中野経由で三鷹の龍源寺まで運びこめたものだと驚いてしまいますね。
昭和時代の調査で、龍源寺の近藤勇の墓からは遺骨が見つかり、彼の子供の頃の逸話のひとつである、足の骨折跡が確認できたこともわかっています。
対する東京都北区・寿徳寺にも昭和時代の調査で、男性のものと思われる遺骨が発見されました。
また、永倉新八が自分の遺骨を「近藤さんの隣に……」と分骨させ、葬らせている逸話もあります。
しかし、現時点では、妻のチェックをかいくぐり、おまけに子供時代の骨折話にも合致するというエピソードの具体性で、三鷹の龍源寺に軍配が上がるといえるでしょう。