日本の歴史をひもとくと、お葬式で重視されるイベントが「故人とのお別れ」より「故人の遺体をどうするか」だった時代が長いのは、仕方の無いことかもしれません。
たしかにそのまま部屋に放置しておくわけにもいきませんしね……。
それでも13世紀ごろから、家族やごく近しい身内だけで行われてきた葬儀に、葬儀のプロといってもよい業者が(ビジネスとして)お手伝いをするという選択肢が生まれ、上流階級だけでなく庶民でもお葬式のバリエーションは増えていきました。
江戸時代ごろには、大都市圏を中心にお葬式に使われる仏具などの販売だけでなくレンタルも、専門業者によって行われていたことがわかっていますので、だいたい江戸時代くらいから「遺体の処遇」だけでなく「故人とのお別れ」も重視されはじめたのだろうな、ということが推察されます。
さて、そんな江戸時代に入ってもお葬式の方法は、大きく分けて土葬か火葬かの二択でした。
ちなみに読者の中には「今は火葬が普通だけれど、昔は土葬のほうが多かったのでは?」というイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。
ところが実際のところは、土葬か火葬かの二択は様々な理由によって左右されてきた……というのが歴史的に正しい解釈なのです。
火葬都市大阪
たとえば土葬/火葬の記録が比較的多く残されている江戸時代、火葬大国だったのは大坂でした。
大坂の道頓堀墓所など七箇所は火葬専門の墓所としてしられ、その周辺には火葬職人である「三昧聖(ざんまいひじり)」たちが暮らしていました(堀江宏樹の葬儀文化史 presented by 雅倶楽部『葬儀のプロが生まれた理由は、高度な焼却技術が必要とされた「火葬」にアリ?!』参照)。
三昧聖たちの作成した火葬をおこなった1735年から1861年までのリストが残されており、多い年には道頓堀墓所だけで1万件。少ない年でも5000件もの火葬が行われたという記録があります。
この時期の道頓堀周辺では土葬にされたのは死者のうち1割程度だったようです。
道頓堀といえば、現代でも大阪の中心地である「なんば駅」/「難波駅」にほどちかく、一昔前までは阪神タイガースが試合に勝つたび、飛び込む人が多かった水辺です。
このあたりは江戸時代、火葬場がたちならび
「火葬の煙(けぶり)絶(たえ)やらす」
(出典:『難波名所蘆分船』)
……火葬場から煙がしょっちゅう出ており、途絶えることがないと言われたウラ名所だったのですね。
そして遺灰の一部だけがカタチだけ埋葬されていった感じだと推察されます。
土葬が選ばれた理由は人口密度の高さにあり?!
一方で、当時の大坂以上の人口密度を誇った江戸では逆に、密度が高すぎるからか、火葬すると大量に発生する煙と異臭がクレームのもととなったようで、土葬が中心でした。
しかし庶民の土葬は悲惨そのもので、貧しい地区のお寺の墓所はもはや埋葬する場所もないので大きな穴からはみ出るほど、棺桶を積み重ね、それらが朽ちていくのを待つしかないという恐ろしい光景が広がりました。
当時は墓所とはいっても、われわれが想像すらできない場所だったのです。
このような“棺桶の森”に埋葬されたのは、主に日雇いで江戸に来ていた身寄りのない者や、貧しい裏長屋暮らしの町人たちでした。
一方で、土地が余っていた地方の村々では……というと、大都市圏の貧民層のような悲惨な墓地事情はありませんでした。
現代の感覚に近い、墓石のある、いわばお墓らしいお墓を彼らは手に入れることが出来たのです。こういうお墓を「参り墓」と一般的にいいます。
このような流れのなかで、江戸時代から檀家制度が生まれ、お寺の主導のもと、庶民たちも先祖の墓参りを折に触れて行う習慣が生まれていくことになります。
伝統やしきたりからの脱却
先ほどお話しした道頓堀と「同じ」大坂でも、大坂の郊外に位置する河内国池尻村の庄屋・田中家の記録からは、家族のそれぞれの意思で葬儀の方法が選択されていたようだ、という興味深い事実もあきらかになっています。
ちなみに宗派によって葬儀が異なる例として、「浄土真宗は火葬が多い」ということが指摘されたりもしますが、実際のところは「そうとは言い切れない」そうで、また寺の墓所に葬られるときも火葬の場合もあれば、土葬の場合もあるということがむしろ普通だったことが調査によって明らかになってきているのです。
このあたりに、「伝統」や「しきたり」を超えて、亡くなった方やその遺族の価値観が重視される、現代のお葬式に通じる下地が江戸時代くらいから、すくなくとも経済的にゆとりのある層の中で存在しはじめていたことがわかるのでした。