日本海軍軍人・山本五十六(やまもといそろく)の国葬は、戦前日本においてもっとも政治的な意味が強い葬礼であったと考えられます。
日本において、明治時代にはじまった国葬という特別な葬礼は、1926年(大正15年)に制定された「国葬令」によって、一部の皇族や、国家に対して「偉勲ある者」が亡くなった際、天皇から特別に与えられる儀式だとされます。
つまり、国葬の政治的な色彩は最初から強いのですが、太平洋戦争中に戦死した山本五十六の国葬ともなれば、国民への影響力は凄まじいものがあったと考えられます。
連合艦隊司令長官山本五十六大将 前線視察中に死す
太平洋戦争中の1943年(昭和18年)4月18日、山本は前線視察のため、ニューブリテン島のラバウル基地から飛行機で飛び立ちました。極秘行動のつもりが、アメリカに作戦情報は筒抜けで、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空において、山本の搭乗機はアメリカ軍戦闘機から攻撃を受け、撃墜されてしまいました。
享年59歳。対アメリカ戦において、真珠湾攻撃は成功させたものの、およそ半年後のミッドウェー海戦では大敗し、その後の戦況でも盛り返すことができず、無念の死でした。
山本の長男で、『父 山本五十六』という回想録を残した山本義正の証言によると、山本戦死の情報が遺族にもたらされたのは、彼が亡くなってから1ヶ月以上も後の5月20日のこと。公式発表のわずか1日前でした。
その当時、義正は青山にあった自宅を出ており、吉祥寺の知り合いの家に下宿していました。本人曰く「吉祥寺にある成蹊高校理科甲類の二年生」として通学するためです。
山本の戦死は、日本中を動揺させる危険性を帯びた情報だったため、秘密保持が重視されました。それゆえ、下宿先に軍からかかってきた電話は、義正に一刻も早く早退し、青山の実家まで戻るように告げただけだったそうです。
学校の教師から、急いで早退し、実家に戻るように告げられた義正ですが、この時点では父の死は伝えられておらず、彼にとってそうした事態はまったく予期できぬことだったので、訝しさを感じつつ、言われるがまま電車に乗って青山に向かったのだそうです。
青山の家には山本の長年の親友で、当時、軍をすでに辞め、浦賀ドックの社長をしていた堀悌吉(ほりていきち)がおり、彼の口から、墜落した飛行機の中で、山本が「軍刀の柄頭(つかがしら)を握ったままの姿勢で、立派な壮烈な戦死」を1ヶ月以上前に遂げていたという、衝撃の事実が伝えられます。
山本の遺族、堀のようなごく親しい関係者にだけは1日、世間よりも早めの連絡が行ったそうです。
翌日の公式発表以降、遺族に世間からの注目が浴びせられることは必定で、それまでに身なりを整えるなど、少しでも準備できるよう、山本の旧友にあたる海軍関係者が非公式のはからいをしてくれたのです。
しかし、敬愛する父の死を告げられた義正は驚きのあまり涙も出ませんでした。また、義正は母親をいたわることさえできず、なかば放心状態のまま、青山の実家を出て、下宿がある吉祥寺に戻ります。
義正は駅の近くの床屋に寄ってバリカンで頭を刈ってもらうことにしました。混乱の中でも、明日以降、「英雄」の息子として、世間からの注目を浴びねばならないことに気づいていたのでしょう。彼の判断はただしく、義正がこざっぱりとした身なりをしていたことは日本中の人々から好評を得たようです。
薨去(こうきょ)に付(つき)特に国葬を賜う
山本五十六の戦死を告げる大本営発表があったのは、翌21日15時でした。さらに2時間後の17時、情報局から、山本に「薨去に付(つき)特に国葬を賜う」という昭和天皇の決定が発表されました。
驚くべきことに、この時点まで、山本家の人々にも、山本五十六が国葬になることは通知されていなかったようです。
先ほど申し上げたとおり、戦前日本において、国葬の対象となるのは、一部の皇族と、国家に対する高い勲功がとくに認められた者ーー実質的には、ごく一部の華族ーーに限定されていたのです。
また、陸海軍の間で、軍人は国葬の対象外であるという協定も結ばれていました。にもかかわらず、なぜ山本は国葬となったのでしょうか?
山本五十六の以前に国葬となった東郷平八郎も旧薩摩藩出身の士族で、海軍軍人でしたが、彼は日露戦争を勝利に導いた勲功から、伯爵の爵位を賜って華族になっています(死の前日に侯爵に格上げ)。それに対し、山本五十六は長岡藩藩士を先祖に持つ士族であり、軍人の家系でしたが、身分は華族ではなく、平民だとされたのです。
国葬の発表を聞いた親類縁者たちは、青山の山本家に押しかけてきたそうですが、彼らは「英雄」山本五十六の死を悼みながらも、彼の葬儀が天皇の特別な思し召しによって国葬になったことを、素直に喜ぶべきことだと考えていたのではないでしょうか。
この連載の中で、明治時代の日本で唐突に開始された国葬の伝統や、国葬の対象となった人々の姿を取り上げてきましたが、その家族の本音については触れることができませんでした。史料がないからです。
体面を重んじる華族・皇族としては、天皇から賜る国葬という「恩恵」に対しても、「身に余る光栄でございます。ありがとうございます」以外の気持ちは表沙汰にはできなかったと考えられますが、平民=一般庶民であった山本義正は実に率直に、愛する父・五十六が国葬になったことについて、「遺族である私たちには、むなしさのみが感じられてならなかった」とはっきり発言しています(以下、引用部分は『父 山本五十六』から)。
あいつぐ儀式につぐ儀式
国葬の場合、自宅とは別に会場が設けられることがしばしばありました。山本五十六の場合、祭壇が設けられたのは青山の私邸と、海軍関係者の会館で、芝にあった水交社という建物内のホールの二箇所でした。山本が生前、与えられていた多くの勲章と生花などが飾られ、ひっきりなしに弔問者が訪れたそうです。
国葬は「明らかに国策にそった国の行事」なので、宮内庁・式部官の指示に沿って執り行われるのですが、高校2年生という若さで愛する父を戦争で失い、国葬の喪主になってしまった義正にとって、その責務は過酷でした。
「国葬の葬儀は五月二十七日の墓地地鎮祭から六月五日の斂葬墓所祭(れんそうぼしょさい、いわゆる埋葬の儀式)まで続いた」とあります。期間も一般的なお葬式より、かなり長かったのは注目され、葬儀委員長となった亡父の友人たちが義正を親身に支えてくれたにせよ、あいつぐ儀式につぐ儀式に「もはや悲しむどころではなくなった」ともいいます。
永遠に続くかと思われた儀式だらけの日々でしたが、斂葬(れんそう)、つまり埋葬の日はついにやってきました。
山本の遺骨が水交社を出たのは6月5日、朝8時50分。虎ノ門、海軍省、日比谷を経由し、多摩墓地に向かって葬列は続きました。
墓所において遺骨の埋葬が行われたのは、夕暮れ時でした。葬列は丸一日、しずしずと動き続けたのです。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
奇しくも6月5日は、かつて東郷平八郎が国葬となった日と同じだったそうです。
義正は当時を振り返り、「私には、父の死にふさわしいものが、(国葬で行われたように)儀仗兵や軍楽隊や、沿道の鈴なりの人々の見送りとは、どうしても思えなかった。父はもっとも父らしくないやり方で葬られたような気もしていた」とさえ発言しています。
「広い空から海の上に(遺骨を)播き散らされ、共に戦った戦友たちと溶け合って影もとどめない葬り方」のほうが、亡き父を満足させられたのではなかったかと悩みつつも、宮内庁のお役人が決定した国葬のあり方に、遺族が口を挟むことは遠慮すべきと考えられため、ほとんど何もいえませんでした。
一つだけ、山本家が望み、叶えられたことは、多摩墓地に葬られる山本五十六の遺骨の一部を分骨してもらい、彼の故郷・長岡にある山本家の墓所に葬ることだったそうです。
愛する家族の死が遺族の手の内からを遠く離れていき、国家の占有物とされる過程――それが国葬の本質といえるでしょうが、戦時下の国家主義体制において、その傾向はより強く表れてしまったのかもしれませんね。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
山本五十六の国葬を伝える当時のニュース映画を見ると、遺族など、ごく一部の日本古来の有職装束をまとった人々に対し、圧倒的多数は洋風のユニフォームに身を包んだ海軍関係者によって葬列が組まれており、興味深いです。