京都の朝廷から独立した武家政権、通称・鎌倉幕府を組織した源頼朝。
日本で最初の武家政権を作り上げ、歴史を変えた「英雄」です。
そんな源頼朝の人生は、波乱に満ちたものでした。
実は戦下手?!後ろ盾に救われた頼朝
出典:『平治物語絵巻』三条殿焼討/ボストン美術館所蔵
平治元 (1159) 年の「平治の乱」では平家に反旗を翻し、清和源氏の棟梁(=リーダー)である父・源義朝と共に立ち上がりますが、反乱は失敗してしまいます。
義朝は死にますが、平清盛に処刑される寸前で頼朝は助命され、関東に流刑になりました。
出典:北条政子/菊池容斎画
しかしそこで後に妻となる北条政子と出会い、激しく恋い慕われ、押し切られるように結婚してしまいます。
何が幸いするかわからないものですが、その後の頼朝は妻・政子や、その実家である北条家のサポートを得て、戦下手という軍人としての致命的な欠陥を抱えながらも関東の武士団を着々と統一していくのです。
『平家物語』では、平家支配を覆そうとした源氏による反乱である「平治の乱」に破れ、囚われた頼朝の顔を、(平清盛の継母の)池禅尼という尼が、死んだ息子に似ているなどと言って助命嘆願したことになっており、ドラマの類でもその手のシーンが出てきます。
しかし実際のところ、本当に彼の命を救ったのは、当時の朝廷のドンだった後白河法皇とその姉・上西門院(じょうさいもんいん)の捨て身といってもよい助力が大きいようです。
後白河法皇と姉に、少年時代の頼朝は仕えており、彼らは頼朝に強い思いを抱いていており、結果として平清盛が根負けするほどに部下を動かして介入してきたことが史料から推察されます。
その思いの内訳をここで分析することはしませんが、軍人として各地を飛び回る父・義朝以上に、後白河法皇のほうが父代わりのような、身近な存在であったことは推測されます。
頼朝と、後白河には強い絆があったようです。
しかし、それでも晩年の後白河は頼朝たっての願いを聞き遂げてくれようとはしませんでした。
頼朝が征夷大将軍に任命された年=1192年…鎌倉幕府自体はそれより前にあった?!
建久元(1190)年、頼朝は鎌倉を発ち、京都に遠路向かいます。
後白河法皇に自分を征夷大将軍に任命させ、武家政権を鎌倉に樹立したいと考えていたのです。
頼朝はなぜ、征夷大将軍という位に固執したのかというと、征夷大将軍は朝廷から独立した権力組織・幕府の長となりうるからでした。
ところが後白河は、頼朝の「独立」を認めようとはしませんでした。
両者の面会から2年後、後白河は66歳で亡くなっています。
そして頼朝は重鎮・後白河を失った朝廷に圧力をかけ、征夷大将軍の座を手に入れることにようやく成功したのでした。
それが建久3(1192)年の話で、昔は歴史の教科書で「いい国作ろう、鎌倉幕府」と語呂合わせで教えていたわけです。
実際のところは、頼朝が征夷大将軍の座を手に入れた年にすぎず、すでに鎌倉幕府の組織はほぼ完成していたともいわれ、鎌倉幕府のスタートがいつだったかについては、諸説が乱れ飛ぶ状態になっています。
なぜか公式見解が無い頼朝の死…女性問題が原因?!
『吾妻鏡』吉川本 右田弘詮の序文
建久10(1199)年1月13日、源頼朝は死去しました。数え年で53歳の突然の死でした。
奇妙なことに、鎌倉幕府の公式史『吾妻鏡(あづまかがみ)』には、初代将軍・頼朝の死に関する記述がすっぽり抜けてしまっているのです。
つまり、鎌倉幕府は、「創始者」である頼朝の死について公式見解を出さないままだったのですね。
そして、彼の死から約13年経過した頃、はじめて『吾妻鏡』に頼朝の死についての記述が登場するのでした。
すでに頼朝の息子の一人だった源実朝(鎌倉幕府・三代将軍)の時代となっています。
父・頼朝が建久9(1198)年の12月27日、その橋のそばで落馬し、その怪我がもとで亡くなったという橋を再建すべきか、やめるべきかを実朝と家臣たちは議論しているわけですが、その記述から考えると、「頼朝は落馬事故がもとで亡くなった」というふうに家臣や子供たちの間では語り継がれていたようです。
しかし、頼朝の死の当時、京都では公家たちが、口々に源の死因について自分の聞き知った「事実」を日記に書き記しているのですね。
「頼朝は糖尿病で死んだ(『猪熊関白記』)」という説もあれば、天才歌人の藤原定家によると「疲労による突然死(『明月記』)」と、情報は錯綜しているのですが、「落馬事故による死」という記述だけは見つかりません。
本当に落馬事故だったのか……という疑惑が払拭できないのでした。
南北時代には、平家の怨霊を見た恐怖で、頼朝は落馬したという物騒な説も飛び出しました(『保暦間記(ほうりゃくかんき)』)
江戸時代でも、源頼朝の死は疑問として語り継がれています。
たとえば自身も朝廷から征夷大将軍の位を得て、幕府を開いた徳川家康は『吾妻鏡』を学ぶ中で、源頼朝の不名誉になるような記事は破いて捨てさせた。
だから頼朝の死の記述は『吾妻鏡』に存在しないのではという“伝承”まであるのです(江戸時代中期、新井白石『紳書』)。
「不名誉」といえば、ピンとくるのは女性関係でしょう。
生前の頼朝は、妻・政子と夫婦喧嘩を何回も繰り返し、その原因は頼朝の女性関係であることも多く、また政子は自分の夫より相手の女性のほうを憎むタイプの女でした。
たとえば、頼朝の愛人・亀の前という女性が匿われていた家を、別の武士に命令して潰させたことも『吾妻鏡』には記録されています。このときは亀の前を匿い、彼女に住む場所を与えて世話していた武士・伏見広綱にも怒りの矛先を向けた政子は、彼を流刑にしているのでした。
しかし、度重なる頼朝の浮気に、ついに堪忍袋の尾を切らし、部下の武士たちに手をくださせた、つまり暗殺させたという説も昔から根強くありました。
今となっては、真相は闇の中ですが……。
お堂も墓所も残らず…征夷大将軍の悲しき現在(いま)
頼朝の葬儀や埋葬の記録についての『吾妻鏡』の記述はありませんが、頼朝が「大倉法華堂(現在の白旗神社)」に葬むられ、一周忌などの仏事が催されていたことだけはわかります。
大倉法華堂とは、源頼朝の死後の呼び名で、もともとは彼の館である「大倉御所」の敷地内に建てられていた、持仏堂(=頼朝が身辺に置いて信仰し、時に持ち歩いていた仏像を祀ったお堂)のことです。
鎌倉幕府滅亡後も、大倉法華堂は信仰を集めていましたが、戦国時代に荒れ果て、17世紀初め頃には建物すら失われている状態になっていました。
そして頼朝の墓の場所もわからなくなっていました。
現存する頼朝の墓は、薩摩藩主・島津家が寄進し、18世紀末に再建させた石塔です。
島津家の祖先の女性が頼朝の乳母だった縁だといわれています。