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コラム 堀江宏樹の葬儀文化史 presented by 雅倶楽部 2025年2月26日掲載

死の直前に自ら「北枕」に?!藤原道長の極楽往生への執念

極楽浄土への強い願いを持っていた藤原道長。
後世の葬儀や供養のトレンドの先駆けとなった道長の行動(終活)はどのようなものだったのでしょうか?
最高権力者の死について触れてみたいと思います。

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前回は、平安時代の貴族たちの多くが、簡素な葬儀と供養を志向していたというお話(『【VIP貴族/公卿(くぎょう)の葬儀】「遺骨」という概念はどのようにして生まれたのか?』)をしましたが、上流貴族の中には魂殿(たまどの)という木造の建物に自分の遺体を安置させ、1年以上放置した後に焼却してもらうケースもありました。

また、一条天皇の中宮だった藤原定子のように「火葬は嫌だ」という故人の意思を重んじ、魂殿の焼却が行われないケースもあったようです。動物に荒らされたりしないよう、ずっと見守る必要が生じますから、管理に莫大なリソースを割くことができる上流貴族だけの「贅沢」だったといえるでしょう。

それでは、当時、最高の権力者であった藤原道長は、どのような葬儀を望んでいたのでしょうか。

極楽往生のために「生きながら死ぬこと」

平安時代の貴族たちは熱心な仏教徒であったことが知られていますが、中でも道長の信心は非常に深いものでした。由緒のある寺院に寄進したり、私有する土地に自分や家族のための寺院を建てることも大貴族にはよくあることでしたが、道長はとくにこの手の活動に熱心だったのです。

背景にあるのは、道長の極楽往生への強い願いでした。また、自らの死に先駆け、道長が極楽往生のために取った数々の行動は、後世の葬儀や供養のトレンドを決定したともいえるでしょう。

藤原道長は、寛仁3年(1019年)に出家し、行観(行覚)という法名を得ています。当時、出家は「生きながらにして死ぬこと」を意味していました。また、出家していれば、現世で犯した罪が軽くなり、極楽往生しやすくなるとも信じられていました。

権力者の常として、道長も自らの手を汚すようなこともしていたはずです。

彼はすでに51歳頃から、現代ならば糖尿病が原因だと思われる症状に苦しみ、白内障や心臓の障害を抱えていましたが、「過去の報い」を意識することも多かったのでしょう。

だからこそ、これまでの罪を軽くするために出家を選んだのかもしれません。出家はすでに余命を意識するほど、ひどい健康状態になってしまっていた証でもあるとも考えられます。

贖罪のための莫大な私財投入による寺院建立

出家後の道長は、自らの修行の場として邸宅に面した土地に法成寺を建立することを思いつき、莫大な私財を投じて、法成寺を金堂、五大堂、阿弥陀堂、その他もろもろの建物が建ち並ぶ現世の極楽浄土にしようと試みました。

当時の貴族たちには、遺骨や遺体に魂が宿るという感覚は薄かったので、彼らは墓ではなく、寺院を建てて、そこに金をつぎ込んだのですね。

法成寺の建物の屋根には、この当時、極めて高価だった緑色の瓦が並び、柱には紫檀などの香木が用いられ、堂内には金や銀といった貴重な素材の仏像が数多く安置されました。道長は寺に尼僧たちを招き、彼女たちの望むまま、多くの宗教行事を繰り広げさせました。

自分だけでなく、他者の修業の場にもなりうる寺院を、私財を投じて作ることこそが、極楽往生に直結しているという考えたからです。

それから3年後の治安3年(1023年)、道長は多くのお供を引き連れ、空海が築いた金剛峯寺を参詣しました。目的の一つが、自ら筆写した経典を高野山に収めようとしたことです。これは後世でいう納骨に相当する行為であったと考えられます。

道長の時代には納骨より、自ら筆写した経典を高野山などの有名寺院に収める納経のほうが重視されていたのですね。

ちなみに、道長の納経から85年後の天仁元年(1108年)、堀河院も高野山を訪れ、経と共に自らの髪も収めたという記録が『中右記』という書物に見られ、これが有力貴族や武士たちに真似られ、後の納骨文化に変っていったと考えられるそうです。

愛娘・妍子(けんし/きよこ)の死

しかし、道長の健康状態の悪化は止まらず、万寿4年(1027年)6月には背中にできた腫瘍が膨れ上がっています。医師の判断は「癰(よう)」でしたが、実際の病名は不明です。おまけにこの年の9月、道長は、愛娘・妍子(けんし/きよこ)に先立たれ、大きなショックを受けました。

妍子は法成寺に面した屋敷の南殿で亡くなっており、道長は寺の仏像を本尊として「五七の日」など数々の法要を執り行わせています。
さらに重要な「七七の日」の法要は、道長自慢の阿弥陀堂において行われましたが、道長にとって、これらは来るべき自分の葬儀のためのリハーサルのつもりだったのかもしれません。

残念ながら、祈祷の功徳は薄く、道長の背中の腫れ物はまるで女性の乳房のように膨れ上がってしまいました。もちろん、当時の医療技術では手の施しようがありません。同年12月、ついに危篤に陥った道長は、この世で最後の時間をすごす場所だと決めていた阿弥陀堂に担ぎ込まれました。そして阿弥陀仏を前に寝かされています。

道長の極楽往生への執念

道長は、堂内の九体もの阿弥陀仏の手に繋がれた糸を自分の手で握り、死ぬ瞬間まで念仏を唱え続けました。
「いよいよ」という時には、臨終の際のお釈迦さまのように「頭北面西」――頭を北に、顔を西に向けた姿勢を自らの意思で取りました(『栄花物語』)。

通常ならば死後に、家族の手で「北枕」にされるケースが多い中、自らの意思で姿勢を変えているのは興味深いですね。

このように極楽往生にかけた彼の執念はあまりに凄まじく、亡くなってもなお、上半身はしばらく暖かく、まるで口が念仏を唱えているように動いて見えたそうです。まだ息があるうちから、自分の理想とする葬儀を何年もかけて、自らの手で行いつつあったようにも思えてしまう、最晩年の道長の姿でした。

彼の遺体は鳥倍野の山中に運ばれて火葬され、遺骨は藤原北家の墓所と定められていた木幡の墓地(現在の京都・宇治市)に葬られています。しかし、平安時代の貴族によくあるように、あれだけ極楽往生を希望した道長も、自分の遺骨の行く末についてはあまり高い関心を持っていなかったようで、現代では木幡の墓地のどこに彼が眠っているのか、はっきりしたことはよくわかっていません。

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