豊臣秀吉が京都・伏見城で亡くなったのは慶長3年8月18日(1598年9月18日)、悪名高い「朝鮮出兵」こと「文禄・慶長の役」の最中のことでした。
享年62歳(数え年)。亡くなる何年か前からは、健康状態が優れず、苦しんでいました。
漢方薬の効き目もなく、宣教師ロドリゲスは「干からびたように衰弱しており(略)悪霊のよう」とすら、最晩年の秀吉について証言しており、正確な死因は今となっては不明です。
日本語の資料でも食が細ってしまっていた様子が描かれており、痩せこけていたのでしょう。
秀吉の辞世の和歌として知られる
「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
ですが、農民から「天下人」まで異例の出世を遂げ、さらに朝鮮や中国をも支配下に置こうとしていた秀吉は、見果てぬ夢を見すぎて、心身ともに消耗してしまったのかもしれません。
葬儀どころではなかったお家事情
翌年まで秀吉の遺体は伏見城で「保存」されていたようです。
この時、有力武将たちの大半が朝鮮に渡って日本におらず、嫡男の秀頼はいまだ幼く、秀吉の死によって朝鮮半島からの撤退が一斉にはじまったと背景もあり、葬儀どころではありませんでした。
秀吉の葬儀は、慶長4(1599)年2月18日、秀吉ゆかりの方広寺に葬儀用の建物を作らせたり、日本中の大名がそれぞれ数百名~500名程度の従者を引き連れて参列、大勢の僧侶が読経したりそれは盛大に行われた……との記述が『豊臣秀吉公御葬送行列次第』の中に見られます。
『豊臣秀吉公御葬送行列次第』/ 愛知県図書館「貴重和本デジタルライブラリー」
しかしこの書物、なんと石田三成らが、秀吉の葬儀を行ったことにして作らせたニセの報告書なのでした。
慶長4(1599)年4月13日に秀吉の遺体は伏見城を出て、東山阿弥陀ヶ峰に埋葬されています。
また16日には朝廷から秀吉を「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」、つまり神として認定する許可が下りていました。
神になったことも、盛大な葬式を執り行わなかった理由のひとつとされますが、石田三成の派閥と、徳川家康の派閥、そして豊臣秀吉との縁は深いが、石田三成を毛嫌いしている大名たちの派閥など、家内の対立は深刻で「秀吉の盛大な葬儀どころではなかった」ようなのですね。
実際に翌・慶長5(1600)年には、あの「関ヶ原の戦い」がありました。徳川家康と石田三成の激突で、石田は敗死しています。
その後も豊臣家は存続していましたが、没落の気配は濃厚でした。
このあたりが、秀吉の葬儀が大々的に行われなかった理由かと思われます。
ただし、まったく葬儀がなかったわけではないと思われます。
神として祀られた秀吉、それを破却せんとす徳川家康
木食応其坐像 作者 Yanmomo [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], ウィキメディア・コモンズより
秀吉の埋葬を担当したのは、秀吉の寺社造営を取り仕切っていた木食応其(もくじきおうご)という真言宗の僧侶でしたから、彼の手によって、何らかの儀式が行われたことは推測されます。
この木食応其の手によって、秀吉の墓所に「豊国廟(とよくにびょう)」の建築がなされていきました。
そして毎年8月18日の秀吉の年忌には、豊国廟や各地の豊国神社にて「豊国祭」が執り行われていたのです。
秀吉は、民衆から大いに人気がありました。
淀殿(茶々) By 奈良県立美術館収蔵『傳 淀殿畫像』 / Nara Museum of Art [Public domain], via Wikimedia Commons
しかし元和元(1615)年の「大坂の夏の陣」の末期、徳川軍においつめられた豊臣秀頼と淀殿が自刃して果て、豊臣宗家は滅亡してしまいます。
次の「天下人」となった徳川家康は、ときの帝・後水尾天皇の許可を得て、秀吉を神の座から引きずり下ろすことにします。
「豊国大明神」の神号は廃止、神としての秀吉を祀った「豊国廟」も廃絶に。毎年の豊国祭すら禁止されることになりました。
この時、徳川家康は「豊国廟」も建物全体を破却、つまり壊して撤去させるつもりでいたのですが、
家康にモノ申せる立場だった、豊臣秀吉の正室・おねが「待った」をかけました。
この二人の関係についての長い話をまとめましょうか。
豊臣家滅亡と引き換えに生き残った豊臣秀吉の正室「おね」
作者 www.kodaiji.com/ guide/nene.html Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
関ヶ原の戦いにさきがけ、おねは大坂城から出ていき、徳川家康の保護下に入るという仰天の行動をおこした過去がありました。
秀吉との間に一人も子供を持てなかったおねに対し、秀吉との間に嫡男・秀頼を生んだ淀殿、そして淀殿が重用していた石田三成らが幅を利かせている大坂城での生活に辟易としていたからともいわれます。
おねの行為は石田三成を嫌う豊臣方の武将たちが、いっせいに徳川家に味方するきっかけとなり、豊臣家の分裂をまねく遠因ともなりました。
そして、豊臣家は実際に滅ぼされてしまったのです。
おねは、自分の行為を後年まで悔やんでいたようです。
その一方、徳川家にとっては豊臣家分断というチャンスを作ってくれた彼女は「恩人」ですから、彼女には京都・高台院を与え、厚遇し続けていたのでした。
秀吉の霊廟は朽ち落ち、盗賊の跋扈(ばっこ)を許すまでに
さて秀吉の霊廟が朽ち落ちると、その所領管理は近隣の名門寺院・妙法院に任せられることになったのですが……その後の記録が、元禄元(1688)年11月1日、公家で国学者だった野宮定基(ののみや・さだもと)の日記『定基卿記』に出てきます。
すでに五代将軍・徳川綱吉の治世の話です。
妙法院に仕えていた老人が野宮を訪ね、豊臣秀吉の墓の惨憺たる「今」を伝えたそうです。
妙法院の二代目門主・堯然法親王(ぎょうねん ほっしんのう)の時代、秀吉の墓は盗掘にあっていたのでした。
堯然法親王は寛文元年閏8月22日(1661年10月15日)に亡くなっているため、盗掘は江戸時代中期にかけての出来事だったと思われます。
老人によると、秀吉の遺体は瓶に収められており、また多くの豪華な副葬品もそばに埋められていたのですが、それらをガードしていた巨大な石を避ける形で墓を盗賊が掘り下げ、甲冑や刀、黄金などを持って逃げてしまったというのです。
200年の時を経て豊国神社の再興が決定
『定基卿記』の記録から200年ほど後の明治元(1868)年4月、事態が変わりました。
明治天皇
内田九一 [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
明治天皇の決断によって、大坂城付近の豊国神社の再興、5月に京都・阿弥陀ヶ峰の豊国神社の再興がそれぞれ認められたのです。
明治23(1890)年には、黒田家や蜂須賀家など、豊臣家ゆかりの武将の子孫たちがあつまり、「豊国会」が結成されました。
明治31年の秀吉の三百回忌にさきがけ、明治30(1897)年四月から豊国神社修築工事が行われていたときのことです。
妙法院の管理していた神廟付近の土中から、言い伝えどおり、瓶に入った秀吉の遺体が発見されたのです。
その時、『定基卿記』の言い伝えにあった、巨大な石などはなぜか見つからず、かわりに神廟の地中には玄室(古墳などの内部にある、お棺を納める室)があり、そこには木棺だったものらしき破片が残されていた……というのです。
『定基卿記』にあったように妙法院が秀吉の墓の盗掘に気づいた時、現場に残されていたのは無残にも秀吉の遺体だけだったのかもしれません。
お棺の中に何かがあるか、と探るため木棺が破壊されていた可能性もあります。
徳川幕府は秀吉を必要以上に祀ることを厳禁していたため、妙法寺も代わりの木棺を発注することもできず、秀吉のミイラ化した遺体は粗悪品の瓶の中に放り込まれてしまったような感があります。
秀吉の遺体は瓶の中で西を向いて、手を組み、あぐらをかくように座っていたそうですが、取り出そうとするとボロボロと崩れてしまったそうです。
こうして現在、京都・東山の豊国廟の地下に破片となってしまった秀吉の遺体は眠っているのでした。
歴史エッセイスト・作家 堀江 宏樹
徳川幕府の命令で、秀吉の神廟は朽ちるがままで放置せよと命じられていたにもかかわらず、もともとの豪華な建築が崩れ落ちると、おそらくは妙法院関係者の手で、瓦葺の屋根を持つ質素な木造家屋のようなものが代わりに「神廟」として建てられていたことも、『定基卿記』からはわかります。
妙法院の人々は秀吉の霊にできるかぎりの敬意を示し続けたのでしょう。
その一方で、民衆の中で秀吉への畏敬の念は低下しつつあったのかもしれません。
天下の豊臣秀吉が、それも一時期は神として崇められていた人の墓が荒らされていたのですから……。